身近な人の老いに向き合う
今年の年末のこと。
久しぶりに、介護施設に入っている祖父に会いに行った。
田舎のため、コロナ渦は会うことができず、数年ぶりの再会だった。
祖父の施設は面会条件が厳しく、更に祖父は少し体調を崩し気味だったこともあり、エントランスの自動ドア越しでのほんの数分の面会だった。
(建物の中にも入れず、嘘でしょ?と正直思ったけれど、毎日大変な介護をしてくださる施設のルールがあるのだ、とすぐに理解した。)
両親に妹と弟も一緒で、4歳になった娘も連れていくことができた。
祖父は、歩行器で介護士の方と一緒に歩いてきた。しばらく会っていなかったので、歩行器に捕まりゆっくりと一歩ずつ歩く祖父に老いを感じた。自動ドア越しのため、声を張り順番に名前を呼んで話しかけてくれた。
そして、私の名前を呼ぶまっすぐな優しい目が合った瞬間、急に涙が溢れこぼれ落ちそうになり目を逸らしてしまった。会えたことの嬉しさと、細く小さくなった姿に言葉にならない感情が込み上げできた。
そんな年末を過ごし、年始は能登半島地震や日本航空旅客機の衝突事故が起こり、年始早々日常の尊さを厳しく教えられているような気がした。毎日流れる被災地の状況や衝撃的な事故の映像に言いようのない不安のようなものを感じた。その後も、時折祖父との面会を思い出しては、祖父に対して失礼だった気がして、申し訳ないという気持ちが僅かに残っていた。
でもそんな時ふと思った。そうか。私はいつも明るくはつらつとしていて、小さい頃から遊びに行けば畑に連れて行ってくれて、えんぴつの持ち方を注意したり時々口うるさい詩吟が大好きなじいちゃんのことを今でもしっかりと覚えている。そして、そんな祖父を思い出しながら、変わらずに私の名前を呼んで話しかけてくれる祖父に今会うことができている。大切な人の老いを感じるということは悲しいことではなく、紛れもなくこの世界で一緒に時を過ごしている証だよなぁと。私は小さくなったじいちゃんに、会えて幸せ者だ。そう思ったら、たくさん会いに行かなくては!と思った。
次は、祖父の目を見て、たくさん笑って話がしたい。
いずれ訪れるであろう両親のそんな姿も、しっかりとこれから目に焼き付けたいと今なら思える。