本心はわからなくていい/変わること
人の本心って、一生わからないんじゃないか。
そう感じたことを、作品に触れて、思い出しました。
その作品は、音楽座ミュージカルの「SUNDAY」という舞台作品と、平野啓一郎さんの「本心」という小説。
舞台は、素晴らしいはずの自分の人生を振り返り、目をそらしていた影の部分に気づいてしまう話。
小説は、最愛の母親を突然亡くした主人公が、生前の母親の”本心”を探っていくお話。
(この記事は舞台のみネタバレを含んでいます)
言葉はわかりやすく気持ちを表せるけど、意図的に選ぶことができるから、わからなくなってしまう。
ロドニーは、ジョーンに従った選択をして良かったと言い、ジョーンはその言葉に安心する。
だけど、観客は「ロドニーの本心じゃない」って見てる。
で、本人であるロドニーはどうなのか。
「本心でないが、本心でもある」のかな、と。
弁護士として、結婚を”契約”として解釈しているロドニー。その契約を守るという視点では、その回答をすること自体が、契約(結婚生活)を続けるための行動の一つであって、本心を伝えることの意義よりも、”契約の継続”のほうが重要だという判断からの言葉なのであれば、それは”本心”ということにもなるんだろうと思う。
とはいえ、自分の本心すらわからないまま、言葉にしてることって、あるよなあっていうのも思う。
平野さんの小説『本心』でも、こんな文章が出てくる。
伝えたくないけど、伝わってほしい。そんなシーン。
自分のなかでも、”本心”が決着ついていないまま進むしかないことがあるよなあ、と。
自分ですらわからないんだから、人の本心なんて、たとえ家族のような最愛の人でも、わからないよなあ、って。
でも、それでいいし、そのまま進むしか無いんだなあ。
人の本心はわからないけど、わからなくていい。だけど、「わかろうとすること」が、愛の行動であり、関係性を構築するうえで大事だなと、思ったのですよ。
ちなみに、小説『本心』では、「最愛の人の他者性」という言葉で、そのテーマが描かれます。平野さんは近年の作品のテーマを「愛」としていると明言されており(https://x.gd/DFCcq)そういった深く考察し続けている方の作品という意味でも、とてもおもしろいので、是非。
・・・というのが一つ。
そしてもう一つは、感じ方。
2020年に観たときは、どちらかといえば、ロドニーの呟きとおなじ「プア・リトル・ジョーン」という気持ちになっていた。
だから、みんなの本心が見えて、不満と裏切りが溢れ出る「逆行の告発」のシーンの"陰"が襲いかかってくる感じが好きで。(闇の部分って良いよねえ・・・笑)
最初にゲッコーに「自分だけは大丈夫って みんな思ってんだよね」って、さんざん言われるのに・・・!
そんなこと忘れて、抵抗しつつも絶望するジョーンを、端から見てた。
たぶん、バーバラのように、母親に文句が溜まってる娘側でしか観れてなかったんだろうなと思う。母親の知らない自分がいることも、少し優越感を抱いたりしていて。
でも4年経ったいま、また違った視点だった。
あの「逆行の告発」のシーンは、とにかく痛くて、苦しくて、辛くて。だけどなんか、気持ち良くて。(いや、痛いのよ?)
でも、あんなにいろんなところから容赦なく刺されちゃったら、もう血流すしかないじゃん?
でもさ、瘀血状態(蓋して滞ってるみたいな)だったから、流れ出ていくのが気持ちいいのよね。
その後の「SUNDAY」で、気づきが訪れるジョーンが描かれるけど、そこはもう、めちゃくちゃスッキリ。老廃物が出尽くして、出してくれてありがとうっていう感謝が湧いちゃうくらい。
で、さらに日常に戻ったあとが、いちばん、希望だなと思った。
ジョーンが帰りの電車で出会う老婆に「変わることは聖者にしかできない」みたいなことを言われるけど、私はそうは思わない。変化なんか毎日1ミリでいいし、3ミリ戻ってしまう日があっても、積み重ねで大きな変化を生むことはできると思う。
そしてそれを表してくれる曲が、「私が終わる私がはじまる」だ。
「踏み出そう その先が見えなくても 一歩ずつ」
希望の方を見続けること。信じること。
(たまに絶望の方も見ちゃうけどね。)
さいごに、今期の演出の件に触れますと、シシャが減った分、役付きの役者さんがアンサンブルとして出演の機会が増えていて、本役の伏線みたいになっていて面白いです。ぜひ気にしてみてくださいね。
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