”普通”を装って生きる
こんにちは。あめ です。
外出自粛のなか、皆さまいかがお過ごしでしょうか…。
私はもう去年12月からライブに行っていないという事実に打ちのめされております。
エネルギー不足ううううう。
伝わる人には激しく同意してもらえたりするのですが、ライブハウス特有の空気というのが私の大好物で。
お腹に響いてくるバスドラムの音
だんだん熱を上げていく観客とアーティストの間で繰り広げられるコール&レスポンス
アンコールもダブルアンコールも終わって、終演を告げるアナウンスが入った時の少しの脱力感
そして体がフワフワするような余韻に浸りながら電車に揺られる時間
あー、ライブ、行きたい。
昨今の社会的な難しい話は、私には飲み込むので精一杯で、自分の考えをアウトプットできるまでにものすごく時間がかかってしまうので、そこらの議論はあの、すまんが、任せる。(誰かに)
ちょっとライブへの愛を語ってみて終わり(笑)
半端な感じで申し訳ない(-_-;)
今回の投稿は、私がTwitterで見かけた とあるツイートがきっかけとなり、ここ数日ぼけーっと考えていたことを書いてみます。
ライブへの愛は今度もっと書く。私にライブを語らせると長いぞ。ふふ。
1.障害という単語
私は14歳の初冬、パニック障害を発症した。
そこから精神疾患と付き合い、症状は一進一退、大学受験をしたり、
入院したり入院したり入院したり、
欠席分の課題をこなし、
入院したり入院したり入院したり。
これ大げさではなくて、精神科病棟入院は6回したので入院の登場頻度は正しいはず。
(回数を重ねると「何回だっけ?!」とたまに分からなくなるけど)
とりあえず、毎日の服薬は欠かさず。
1~2週間に1回は外来に通う。
もちろん学業と並行で。
これが如何に地味に無理ゲーというやつか、今の私は身に染みてわかるのだが、
というのは年の功といいますか、
違うか、
まあ色々ありましたこの8年以上。
私の「まあ色々ありました8年以上」で感じたことといえば。
人は集団になると、大多数が属するものを「普通」とし、「普通」に当てはまらない人たちはたいてい肩身の狭い思いをする。
そして、悲しい哉、差別や偏見が生まれることが多い。
なんかこういうのって人間の性やんけ、仕方ないよな
と諦めも少々。
昨今は、「普通でない」(←あまりこういう言い方は個人的に好きじゃないのだが)、少数派・マイノリティと呼ばれるひとたちに対する配慮も増えてきてはいる。
差別のない社会
平等な社会
そういう言葉をよく耳にするのは、きっといい流れが出来始めているからなのだと思う。
さっきから何が言いたいんじゃ、と突っ込まれそうな曖昧な物言いになっているのは、それだけ少数派・マイノリティを取り巻く問題が繊細なものであるからで、
(少なくとも私は繊細に扱われるべきだと思ってます)
というのも、私自身が「精神疾患者」という世界に足を踏み入れて8年ほどが経ち、
去年の夏、精神保健福祉手帳2級を取得して、
「障害者」
そういう立場にいるから。
病名が「○○障害」と診断書に明記される以外にも、障害者手帳を持っているためなのか、やたら私は「障害」という言葉に敏感だ。
最近はネットで精神疾患関連の記事やブログを目にすることもあるが、流し読みしていても「障害」という文字に出会うと割と反応する。
だいたい「いいね」しがち。
※ここでの表記は「障害」としていますが、「障がい」「障碍」など他の表記もありますね。
漢字で「害」という字がつくのが云々という声もよく聞きます。
私は表記にあまりこだわりを持っていない人間なので、表記に関しては突っ込まないでいただけるとありがたいです。
2.”普通”を装うということ
https://twitter.com/egeLA5SLQPV55jo/status/1238812208932384768?s=20
ある日見かけたツイートがとても印象的だった。
ちなみに、このツイートをした「隠者」さんは知り合いではない、何ならフォローしていないので、私のタイムラインにこのツイートが漂着してきたのが何だか不思議だ。
身分証明書として、学生証に代わって障害者手帳を使うようになり、私は「普通」と「障害」の狭間で悶々と考えることが増えていた。
同級生は就活をし、その末に内定をもらい、社会人となっていく。
6年制大学に籍を置いていたり、大学院に進学する友人もいるが、彼女らもいずれは卒業し社会人となるのだろうと勝手に推測している。
それが当然だ、当たり前だ、
…とは誰も明言はしないが、就職しなければ「じゃあどうやって生きていくの?」「いい歳なんだし、早く自立しなさいよ」と言われることが多い。
実際、私の目下の課題は自立だ。主治医であるドクター・チンアナゴとも何度かそういった類の話をしている。
社会的に望ましいとされるのは、結局は「普通」であること。
個性だけで生きていけるほど、世間は優しくない。
障害を持っていようと、それで当人がどれほど苦労していても、
結局この世の中が求めてくるのは
「”普通”であれ」「”普通”に近くあれ」
はっきり口に出して言ってくる人もいる(←これはとても無神経だと思うし、言われる側になってみいや普通でいることがそんなに偉いか。って思う)
このツイート周辺(リプ欄やRT)で見る限り、普通を装っていれば生きやすいこのご時世。
差別のない、平等な社会
これはまだ、実現には程遠い気がする。
ただの理想論で終わっては決してならない。でも実現は難しい。
3.仮面と過ごす
ここからは私個人の経験から思ったことになるのだが、
…ってわざわざ言わなくてもこの投稿自体そうなんだけど。
精神疾患を抱えて過ごしていると、体力の減りがあほみたいに急激な日がある。
壊れたバッテリー状態。
コンセントにつないでいても電池(=体力)がたまるのが遅い、
そのくせコンセントから外して持ち運ぶと(=日常活動全般、何なら布団から起き上がる時点からスタート!)(ちょっとゲーム風)
まあ、あっという間に残量が10%を切りました。
なお現在時刻は15時!(もっと早い日もある)
17時から頑張ろう!ともぐもぐする、あの一本満足バーのCMどころじゃない。
何なんですかねこれ。何でですかドクター・チンアナゴ。
ここでたまに根性論、原因は己の甘えだなんだを説く人もいますが、
(私の父が根性論に傾いてるので敵視)
精神医学に関してはほぼど素人の私が一つ言えるとすれば、
精神疾患は脳内物質のバグです。
シナプスとやらを行き来する、長ったらしいカタカナで呼ばれるアレとかコレとか、
...どれだよ一体、きっとセロトニンとかあーいうやつ。
大事なことなのでもう一度。
脳内物質のバグが起きています。
だから医療面では、ひとまず内服薬で脳内物質の軌道修正を図りましょうそうしましょう、っていう魂胆なんです。
ざっくり言うとね。
とりあえず根性論唱える人には、
それちゃうねん。って私は言いたい。
根性論を説けば精神疾患が治る、と思い込んでいること自体が既に十分すぎる甘えで。
根拠はっ?!どこかの論文に書いてあったのかなっ?!
(いちいち根拠を論文に求めるのは、大学でのレポート課題で染みついたクセでしょうねこれは。)
相手が自分の説教を大人しく聞いてくれると思っているのも、それもまた相手に対して甘えているのではないでしょうかっ!存分にっ!
以上、根性論のくだりに関しましては私の父(50代)に捧ぐ。
話が少しそれたけど、体力=ぶっ壊れたバッテリーもしくは古めのスマホといった感じの私は、ただ日常生活を過ごすだけでも日々がタスク過多。
これに加えて”普通”の面をせねばならぬ。
これは少しでも生きやすくするためのライフハック、義務感すら感じる。
生きるために仮面をかぶる。
自分を隠すことを要求される。
そうして踊る。
くたびれて倒れこむ自分の布団でようやく仮面を解いて、
虚しいのなんの。
涙も枯れてまう。
そうして過ごすひとたちが、少しでも肩の荷を下ろして、仮面をかぶらなくとも生きやすい、
そんな世界になればいい。
そう静かに願う日々である。
☆
世界、と言っても、私が望むのはそんな規模の大きな話ではなくて。
せめて学校とか。学校全体でなくとも学年担当あたりの教師たち。家庭内でも、理解してくれる人が1人いるだけで空気は変わる。
私にとっては、臨時避難場所ではあったけれど、S大学病院の精神科病棟にいるあいだ
まあつまり入院中。
そこは仮面はいらなくて、
どうやっても登校できず、学校もさじを投げて親も困惑していた時、どれだけ頑張っても周囲と同じようにいかなくて自分の居場所はどこにもないと思った時、症状の悪化で思考回路がネガティブまっしぐら、学業以外に自分の価値を見いだせなくてもう何もかもやめてしまおうとしていた時、、、
あの場所には救われた。ほんとに。
でも世間は、ばっさり言ってしまえば「自分(たち)と違う」性質を持つひとたちに対して冷たい。
白い目で見られた日だって何回も、数え切れないほどあった。
思い出したくもないような言葉の刃で切られたことも山ほど。
そういう日がいつか、なくなればいい。
これこそ理想論の一端なのかもしれないけれど、
障害があっても、普通を装わずとも、仮面をかぶらずとも、
壊れたバッテリーもそのままで、医療の力を借りながら、少しずつ修理を進めつつ、
自分そのまま過ごす、そうやって生きていく世界を私は願っている。
あと早く穏やかな日々が戻りますように。
ライブに行きたい。次の投稿はライブを語ろうか。(笑)
ではでは(^^)/~