発症から9年経った某患者の、"今"の話。
こんにちは。あめです。
なんとなぁく私設ブログ的な軽いノリでアカウントを作成し設営はしたものの、てんで続かず、時は流れ。
早いもので約2年note放置。
ナンテコッタ。(すみません)
この放置期間中に転居×2してみたり、唐突にロフスト杖卒業してたり、とまぁ、色々ありましてん。
あとは音楽の推しが手に負えないほど増えましてん。笑
闘病アカウントとしてしばらく置いていた「雪狼」をそろそろ消そうかなと思っていて、あのアカウントも最近はほぼ放置ではあったが5~6年いたので、そこのご挨拶代わりに近況noteでも書こうかと。
BGMは花譜とカンザキイオリ楽曲(推し布教)
転居その1
前回の投稿がカニとかセミの話した2020年夏だったのだが、あれを書いた頃には既にスタートしていたのが「グループホーム探し」。
心理方面の職に就きたくて一般受験までして心理学部に入学したものの、学べば学ぶほど「過去の自分」を反芻しまくって体調を崩し、そうして入退院を繰り返していたら単位落としまくり(出席不良で単位不可となった科目や数知れず)、大学を中退した。大学4年次はメンタルが完全に詰んでおり就活どころか生存すら危うい感じだったため、中退後は無職(年金受給)・実家暮らしがスタート。そのうえ、かの感染症が猛威をふるいもう何が何だか。
私は「親との関係」が体調に大きな影響を与える。自分を抑えて親の顔色を伺うのがいつの間にか身にしみてしまい、いやでも辞められなくなっていた。
だが親は変わらない。
変わってほしくても、少しこちらへの体調へ理解を示す兆しが見えたか……?と期待することがあっても空を切り、その「親は変わらない」を受け止めきれずに時間が過ぎてきたが、
いや、もうこの人たち(親)に期待しても無駄だわ。
とようやく諦めのような……諦めというか「自分が変わらなきゃたぶん永遠に何も起こらない」と悟ったというか。それが2020年4~5月の7回目の入院中のこと。
入院中はグループホームよりは就労移行支援事業所への通所をメインに検討していた。病棟の精神保健福祉士(PSW)さんから役所、事業所へと繋いでもらい、退院後に就労移行の見学日程も組んだ。
グループホーム入居にせよ就労移行への通所にせよ、どっちにしろ役所の障害課にいる担当さんとの面談が必要だった。何か手続きのアレで。
その地域担当さんとの顔合わせの日(母同伴)、近場の精神障害者向けグループホームの空き状況ってどんなんなんです?と質問してみたところ
地域担当 Mさん「あー……ほぼないんですよ」
ないんか。
Mさん「市内で唯一募集出てるのがここだけで。他は市外ですね……市外でも2件くらいしか」
公募のファイルを見せてもらったが、引くほど少なかった。市外2件は引くほど遠い。通院先変更必至。きっと訪看も範囲外となる。住環境に加えて医療面まで変わったら私はきっと速攻詰む。
ここでその「市内」の募集が埋まったら……私が実家を出る手段は……ひとり暮らし一択となる。だがひとり暮らしで生活していける気がしない(生活能力 is 未知)。あと金がなかったり、真っ先に食事を放棄しそうだし、体調悪化の際にひとりだと何か危ないことをやらかしかねない(←前歴あり)。
だから思い切って舵を切った。
私「あの……そこのグループホームの見学ってできますか。」
実家を、出よう。
ここからは怒涛の日々だった。
とりあえず就労移行支援は探せばわりといくらでもあるため、就労は脇に置くこととしてグループホームへ舵を切った私。
当時不機嫌バラマキ&モラハラチックな言動が多かった父には、ぶちキレられると色々困るのでギリギリ(入居先決定する)まで伏せることとし、…いや伏せるっていうか隠したいわけではなく、言うタイミングを探ってたんですが(小声)
とりあえず主治医に話を通し、役所経由で見学の段取りを組んでもらい、通院先PSW同伴で見学、その後入居審査とのことで面談(これはほぼ形式的なモノ)、書類を書き書き、役所では「障害支援区分」とやらの審査を受けてと言われ、
Mさん「結果がわかるまで2ヶ月くらいかかるかと」
長いことステイ。
お役所の常。
グループホーム側からは早々に「入居OK〜」とお返事がきたため、ほぼ障害支援区分ステイ期間でじりじりしていた気がしないでもないが、やっとこさ区分の認定が判明して、2020年10月に私は実家を出た。そして精神障害者向けグループホームへと転居。
それまで「居る」場所が実家あるいは病棟の2択だった私にとって、グループホームは新たな居場所だった。ちなみに学校は体調悪化→電車乗れない、つまり行けないため、サポートセンターのスタッフとはメールでのやりとりをしていたが「居る」場所にはならなかった。
関門であった父だが、入居日も引越し業者も既に決まっていた転居の約2週間前に「あの、引越しマス」とねこを脇に抱えながら伝えたところ、意外とふーん……とすんなり承諾された(いや承諾なくても転居してやるくらいの勢いでいたけど)。……拍子抜けするくらいあっさり。
パッと見、ただの戸建て。
その中の、和室の8畳間。ここが、この日から「私の家」となった。
……なお、「無期限通過型グループホーム」だからこのグループホームを選んだはいいが、他の入居者の騒音に悩まされすったんもんだがあり、1年ちょいでまたまた転居することとなる。
転居その2
冬場は室温が10℃を下回り、梅雨は湿気がえげつなく箱型除湿剤に爆速で水がたまっていき、真夏は室温30℃。ここはサウナか冷蔵庫か、室温の振り幅どうなってんのこの部屋……でひとまず1年は過ぎた。今年もまたド寒い冬が来るんだな……と毛布にくるまりつつ凍えつつ、あんだけ繰り返していた入院は1度もせずにのんびりと過ぎた1年。
環境って大事……(しんみり)。
のんびり、の崩壊は突然訪れた。
同じ階に住むもう1人の入居者さんが、その方の体調悪化ゆえに日がな一日大声で叫びまくる、何か投げとるし蹴ってる(その人の居室内で)、深夜早朝問わずずっと、何かこう、エンドレスにひたすら騒々しい。
古い木造家屋であるため、同じ階だとけっこうダイレクトに騒音がそのままの音量で飛んでくる。深夜に飛び起きるか、早朝に叩き起されるか、二度寝した頃にまたどんちゃん始まるか、まず寝不足。そして音に過敏なタチの私は、自分に向けられているわけではないと分かっていても、何かへの罵倒のようなワードを連発する その大声がひたすらひたすら怖かった。
これをグループホームスタッフに相談したところ。
「個人情報の保護で詳しくは伝えられないんだけど……グループホーム側も何もしてないわけではない」
「私たちは住んでいないから騒音の様子、よく分からなくて……」
私が何を訴えたとてだいたいが上記2パターンの返答。まあそれはそうなんだけど……どうにかならんの。
じゃあせめてスタッフがここ(グループホーム)に駐在する時間を延ばしてくれいと言いたいところだがコロナ禍なのである。まじコロナ……。
※私がいるグループホームはスタッフは常駐していない。1日1回は見回りには来るが、10分程度で帰っていくことが多々。
その「どうにかならんの(息も絶え絶え)」と言い始めた年末から、収束する兆しもなく1ヶ月が経とうしていて、いい加減 "私が" 主治医にレスパイト入院頼みたくなってくるレベルになってきていた。あちらさんもあちらさんで体調の問題なので、体調不良が原因で大声が〜とかそういう症状だっていうのは知ってはいるけれど、なんかもうお互いに体調崩壊チキンレース状態である。ほんとうは叫びまくっている"声の主さん"がレスパイトしてほしかったが私が口を挟める話でもない。個人情報ムズカシイ。
そんな中で2パターン返答のみだったグループホームから出てきた まともな(←言い方)提案が
「ワンルームタイプの部屋に転居する?」
だった。
わたしが。
また転居ぉー……。
2020年10月~入居したパッと見戸建ては「シェアハウスタイプ」と称され、定員5名。私が住んでいた期間はMAX4名。
一方、同じ法人が運営している「ワンルームタイプ」というのは、一般のアパートの一室を法人が借り上げてグループホームとして提供している。ややこしいが、こちらはグループホームいえどほぼひとり暮らしとなる。ふつうにアパートの部屋に1人で住む感じ。ルームシェアではないためガチで1人。
なお、ここで転居を選ばない場合、スタッフさんの物言いからして
「騒音に耐えるか、転居か」
ということで。
はい、転居〜(棒)。
もはや「"騒音の主"を動かしてほしい」「私が音に過敏だからあかんのか」「(好きで聴覚過敏でいるわけでもないのに)なんか私ばっかり負担強いられている感が否めないんですが」「金銭負担えっぐ」「家賃上がるし光熱費も実費になる……世の中所詮カネ……」「個別支援計画案に書かれていた"マイペース"とは?所詮紙切れということ??」などと、言いたいことは山ほどあったがそれを全てのせて反論する気力はなく、その気力は引越し作業へと向けることとした。
もう転居に至るまでの"とりあえず耐えてた"期により、気力も体力もほぼゼロに近い。転居までにぶっ倒れないために、ひとまず優先するは引越し、荷造り、ダンボールの山。1年ぶりだね(棒)。
何か言ったとて大した対応はないんだよねそーですよね、と不信すら募るほどには騒音への対応がオール・暖簾に腕押し の日々だった。
仕方ない面もあるにはあるが、なんかこう、、、何だったの?
とりあえず私は共同生活に不向きだということがよーーーーく分かった。ある程度「他人の生活音」は覚悟してから入居したしどうにか1年はやり過ごせていたが、あんだけ叫ばれたらどうしようもないわ無理でした。
ということで転居その2。これが今年2月のこと。
計20箱あったダンボールの山が全部片付いたのが3月末で、床が見えるようになったわぁ〜〜と思いながらようやく転居その2も落ち着いた今日この頃。
風通しがよくて、この季節は夜に窓開けてると風が気持ちいい。
たまに遠くから野良ねこの怒声が聞こえる。仲良くしてください……。
ロフスト杖 卒業
ロフスト杖、というのは私が7~8年相棒としていたいかつい杖のことである。ロフストランドクラッチが正式名かな……(自信ない)。
転換症状ゆえに右足が脱力してしまうことが多々あって、その時にせめて支えになればと頼っていた。高校の通学も、大学も、普段の外出も、ライブ参戦も杖とともに。
これがまた重いんよ。
見た目通りというか。重たいの。
環境って大事だなぁとしんみりしていた去年秋(騒音前)、この重さが唐突に「……邪魔」と思った。
入院もすることなく低空飛行ながらそこそこ安定した体調となり、転換症状が出現する頻度も減っていた。足の脱力はほぼゼロに。
じゃあコレ、いらんのでは?
かくして唐突にロフスト杖を卒業した。何この唐突さ。私のことを入院1回目(8年前)から知っている現主治医は、突然2本足(杖なし)で外来の診察室に入ってきた私を見て
「……ゑ???」
と言った。
うん、あれは「え」でも「エ」でもなく「ゑ」だった。
「あの杖は???」
そんなにびっくりされるとは思わなかった笑 でもそれもそうか、ずっと入院(×7)も外来も杖で来ていた奴だったので。
できたら病棟でお世話になったひとたちにも、杖なしでスタコラサッサと歩く私を見てほしいと思った。🐻さんを筆頭にびっくりしそう。笑
意外と元気にやっております。
ロフスト杖は重くて動きづらいからと卒業はしたが、まだ不安ではあるため遠出の際は折りたたみのT字杖を携行している。頑張ればショルダーバッグに格納可のサイズ。軽量が売り文句のT字杖が楽天市場からお届けされ、使ってみた第一声
「かっっっるっ!軽!!こわ!!」
折りたためるのはいいけど耐久性大丈夫なん?体重かけたらパキッといかない?とひたすら不安がっていたが、全然大丈夫だし持っているだけでも安心材料になる、ハイ星5つ。
ロフスト杖があれば「あっこの人なんか事情アリな人かしら」と察されることが多かったが(実際電車やバスなどで席譲られること多々。やさしいせかい)、杖がないともうただのワカモンである。元気な時もあるが立ってるのも無理ェ……な時もあり、私が転換症状で倒れると高頻度で声が出せなくなるため精神疾患だから…と事情の説明もできない。
そこで最近知名度上げてきてるヘルプマークの活用。
……が、私はヘルプマーク代わりに木製クマをぶら下げている。5種類ほどから選べたどうぶつの中からクマを選んだ所以は別に〜看護師の🐻さんがどうとかではな〜い(しらばっくれ)個人的には真っ赤の公式マーク(行政が配布してる)が派手すぎて目立つし……と若干使いづらく、minneでオーダーして表面には「持病があります」裏面に体調不良時のお願いを刻印していただいた。やさしい木の風合いがけっこう気に入っている。
公式ヘルプマークが派手すぎて浮きそうだから、あとヘルプマーク=弱い=狙いやすいという理由で痴漢やら仕掛けてくる人間もいるらしいため、目立ちすぎるのも怖いかな、という個人の感想に基づき木製のこの🐻キーホルダーに落ち着いたが、あのド赤に白十字の色合いでないとたぶん通りすがりの人は"ヘルプマーク"="この人はパッと見ふつうだけど何か事情アリ"として認識はしないので、🐻キーホルダーがヘルプマーク的役割を果たしているかは……正直わからん。ただ、ないよりはあった方が安心感があるし、転換症状でぶっ倒れたら真っ先に私はこれを掲げようと思う。印籠のごとく。
周囲の人には🐻キーホルダーのことは周知してあるから、まぁ周りが分かってりゃいっかー程度の気持ち。
精神疾患発症後の9年を振り返りつつ(締めたい)
主治医交代当初(2019年4月)12種類(たぶん1日20錠が常)処方されていた薬は、いまは頓服薬と定時薬合わせて4種類に減った。
ちなみに主治医的にはもっと減らしたい vs.チキる私
杖なしでも歩けるようになり、ようやく自分が"自分"として息ができるようになった気がする。誰の顔色も伺わず、自分のペースを優先することをやっと覚えた。
消極的な希死念慮はずっと連れて歩いている。「振り向けばアイツ」的な希死念慮。ただすぐ実行してやらぁグルルル……というものではなく漠然と、なんとなぁく足元にぴっとりいる感覚で。
解離性健忘も減り、総じて「以前よりマシ」な日々。離人感はまあ毎日あるし、強くなってうおおおおぉというターンが不定期で来るがそういう時はさっさと寝る。寝るの大事。
精神疾患を発症してから9年が経つ。
長かったし濃かった。まだ病気とのお付き合いはこれからも続く。隔週での外来受診、週2回の訪看は今も継続している。
正直、ふつうの人が1番楽しいはずの10代後半〜20代前半はすべて精神疾患に黒く塗りつぶされたので、病気になってよかっただなんて1ミリも思っていない。確かに出会えた医療関係の人々には恵まれたし感謝している。でも言葉で表しきれない部分も含めて精神疾患の苦しさや辛さは味わうもんじゃない。これからも闘病が続くことにもまあまあうんざりしている。人生100年も続かなくていい。長いのよ。
異論は認めるが、別にわたしの思考はコレでいい。
だらだらと、時に死にかけながら呼吸を続け、生きたくなくてもなんとなく生き、大学中退の無職という社会的地位もへったくれもない24歳がここにいる。
これからどうしたいか、と聞かれてもまだ分からない。
何がしたいか、分からない。
地位も金も特別な技術も何もないのに、それでいて今さら何ができるのだ、圧倒的不利だし何もできないだろとも思う。
それでもひとつだけ確かなことは、自分を見失いながらさまよった9年を経て、私が今何を思い、考え、これからどう生活していくか、何をするか、それは全て私が決められる。
親でも、学校でも、医師でもなく、自分で決めていい。
自由であることが逆に怖いこともある。体調が安定しすぎてて「そろそろ崩れる頃合い?来る?」とびくつく時もある。
あと主治医が2年周期でトントンと交代してきたため、3年が経過した現主治医・ドクターチンアナゴがそのうち異動とか言ったらどうしようという謎の不安感が毎年春にめぐってくる。
(※余談ですがチンアナゴストラップは今なお健在。主治医どんなひと?と聞かれたら「チンアナゴストラップ付けてる緩いひと」と答えている)
それでも、なるべくゆるゆる過ごせればいい。失った自分を大事にしてやりながら、自分のご機嫌をとりながら。他人を気にせず自分第一にして過ごせればいい。
今の私は、それだけでいい。
現状維持がひとまずの目標として、
ねこを愛で、音楽を聴きまくり、ライブで弾けて。
14歳でパニック障害を発症し不登校になり、通信制高校へ編入し、一般受験で大学に入学、心理の道を志したが挫折し、学部卒すら泡となって中退した、そんなメンタルお豆腐な 私の話。
この話の続きは、どうなるんだろうね。
……それは誰も知らない。自分で書き続けていくしかない。
しんどくても無理にでもこの世界で生きていろ、とは言わないし、言えません。
ただ、こんな形で隠居老人(※20代半ば)のような生活にたどり着いた私がいます。好きなものと、ひとに囲まれて生きています。
それだけ伝えておきます。
おわり