見出し画像

泣いた烏の笑い方

「やーい、泣き虫!」と小さい頃よく姉に揶揄われた。
「泣き虫毛虫はさんですてろ」と歌われると、本当に自分がすてられてしまうような、なんとも情けない心持ちになり、余計に涙がどぼどぼと出た。

しかし、今思うと非常に稚拙なからかい方である。

それでも、歳の離れた姉に言われると悔しかった。

何より涙を止めることの出来ない自分にほとほと呆れた。


姉とはもう喧嘩も何もしないけれども、わたしは何年経っても泣き虫である。誰かに虐められている訳ではない。旦那さん曰く、(自分で自分を追い込む癖)が私にはあるらしい。ネガティブなベクトルで思い込みが激しいというべきか。

勝手に自分で自分の評価をして、かつ、低く見積もりがち、らしい。低く見積もっておけば、それよりもハードルが高くなる事はない、という下衆な考えが私の深層心理にある。
けれども、低く見積もったのは自分なのに、何故かその自分で設けた価値基準に「在る」ということに幻滅し、(私はなんて駄目なやつなんだ)という気持ちになる。

書き出してみると、なんと愚かなことか。

けれども、どうして。その気持ちを抱えている時は、今のように自分自身にドン引きしながら、「愚かなやつめ」と指を刺しながらビールを飲む事などできない。

うわぁーんと布団を被って、社会との関係性を断絶したくなるのだから、困ったものだ。だって、全部自分で考えて自分にダメージを与えているだけなのだから。しかもちゃっかり布団の中という楽園を満喫しているだなんて…。きっとそういう自分も好きなのだろう。
変かもしれないが、これも私のご自愛の作法のひとつなのだ。

そんな泣き虫な私でも、鳴いたカラスがもう笑ったみたいな笑い方も出来る。私は他人のことを覚えるのはすごく苦手だけれど、他人と関わるのが好きだ。
今は仕事もほとんど一人でしているけれど(仕事は一人では完結しない!とお叱りを受けるかもしれないけれど、論文を書くという仕事はほとんど一人だ)、合間で同僚と別の仕事の話をしたり、居酒屋で知らないひとと打ち解けてみたりする時間がすごく好きだ。

そういう時、わたしは心の底から楽しくて、ちゃんと笑っていることに気づく。

今日はマックのポテトを頬張れて、笑った。食べ物を選んで買って、かつ、それが美味しいということが嬉しい。泣いてばかりだと干からびちゃうから、塩分と水分を補給して、隙あらば笑っていこう。