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M-003 好きな人の中に嫌いがあることを赦す…という豊かさに気づく
ちょっとこれは真面目な話かも。
タイトルでは好きな人と書いたけれど、これはメンターだったり、リスペクトする相手、好きすぎる相手(アイドルとかカリスマとかの部類)に対して抱く「好きの気持ち」の持ち方の話。
ときおり「尊敬していた(大好きだった)のに、あんな人だったとは!裏切られた!」と思うことがあったりする。これはみんなあると思う。
すごく一般的な反応だとは思うのだけど…
でも一方で、わたしには違和感が残る事象でもあって、なんかおかしくないか?と。
▶︎「一部」を「全部」と思う誤解が悲劇をうむ
ここからは、わたしが体験を通して感じた話。
わたし、誰かに「憧れた」こともあるし、「憧れられた」こともある。
「あ〜、この人の考え方素敵!」とか「この人の在り方素敵!」とかね。
主に、稲盛和夫さんだったり、松下幸之助さんだったりするので、実際のお姿はみてもいないし、お話したことすらないのだけど。
最近では、田坂広志さんや山口周さんの知性と美意識はすごく好きで超〜憧れてる。
わたしの好きはさておき…
実際には、Aさんの中で反応したBさんの「素敵!」なポイントって、ポイントでしか反応していないから、Aさんから見たBさんは、それが全てと感じる。
いやいや!その人のすべてじゃないでしょ!!って思うよね。
本来は、そう認識できるはず。だけど「好き」って盲目になりやすいのも事実。
そして、大抵の場合「自分には足りない何か」の反映が、憧れだったりすることがあって
わたしには無くて、その人にはあるモノと捉えがち。
そうなると、その時点で上下の関係、主従の関係みたいな構図を、それぞれが持ってしまわないだろうか?
だけどさ、深く知っていったり、距離が近くなると、憧れた側が
「あれ?」
「あれあれあれ?」
「おや?こんな人?」
「いや、きっと今日だけ機嫌が悪いのか?」
「むむ?これは人としてどうなんだ?」
「ええ!それって変じゃね?」
「げげ!こんな人だと思わなかったー!」
「マジ無理ゲー」
「信じていたのに裏切られたわ〜」
と相手に感じることはよくあるかなと。
結婚したら「ゲッ!こんなやつだったとは思わなかった」とか言って、性格の不一致で離婚ってこういうことだよね?
これを、アイドルとファンで考えると、もう少し過激というか。
アイドルがアイドル像を裏切ったときの、あのすごい拒否反応も、ファン側がどんどん理想化してしまって、裏切られた“気分”になっちゃってるな〜と、そんなにファンじゃない人からみたら思ってしまうじゃないですか。
いや、アイドルだって人間なんだから。それにアイドルだってカメラに映らないところでは、アイドル仮面は脱いでるでしょ?みたいに。
もう1つ、メンターやカリスマに対する憧れた側の心理もこれと同じだな〜と。
憧れた側が反応したメンターやカリスマの「素敵なところ」は、それらの方々の極々一部が見えているにすぎないってことを、心の片隅に置いておかないと、自分の心が疲弊していく悲劇がはじまりまっせ!とわたしは思ったのです。
つまり【能力と人間性って別物】なんだと理解しておく必要があるよね。
人は、自分にない能力に憧れるシーンで、いちばん誤解がうまれやすいのかもしれない。
自分が憧れられる側を体験した時「信じていたのに!こんな人だと思わなかった!」と言われて『どんだけ勝手やねん!』と感じたものです。
正直、わたしの一部しか見ないで、しかも「見たいところしか見ない」(つまりは自分の埋めたいところだけ、ほしいところだけもらう)で『勝手に偶像崇拝すな!アホめが!』と思いました(汗)
どちらの立場も体験して、いやはや、「一部」を「全部」と思う誤解が悲劇をうむと、つくづく思いました。
▶︎負の感情の中にある心理を探ると自分が見えてくる
上記に書いたことは、どちらが悪いとか、そういうジャッジの問題じゃなくて、それらの体験から得るべき大切な「本当のわたし」に目がいかないことがもったいない!というお話。
わたしは、哲学者ヘーゲルの「弁証法」の考え方が大好きで、AかBで対立することに意味はないと思っている。
Aという事象、Bという事象から、まったく違う昇華されたCを抽出することに、喜びを覚える(否定の否定による発展の法則)
弁証法の中の「螺旋的発展」という考え方も大好きだ。
哲学の良いところは、「人類にとっての普遍をみんなで探す」という姿勢。
だから、自分の哲学が否定されることを悲しんだり怒ったりは、基本的にしない。むしろ否定(別の視点が現れるという意味)されることによって、哲学思考がまた流れだすことに重きをおいている学問だと思う。そこがシビれる〜♪
個人のエゴを超え、誰にでも通じる全体の普遍性を見つけ出す視座の高さ!ここが大好きだ!
あ、ついつい、大好きな哲学の話を書くととまらない。
で、です。話を戻すと、何事もですが、事象からはじまる探訪って、浅瀬にはなくて、深いところにこそ意味があると思うのですね。普段はお目見えしない深海魚に会いにいくには、深海の世界を見に行かなきゃいけない。浅瀬で深海魚探したっているわけもなく。
だから、そもそも、憧れがガッカリになってしまうという事象から、深海の中にいる何かを見つける探訪に出る方が、おもしろいのではないか?と思うわけです。
「〜られた」「〜された」からは執着しか生まないから言わんでええって話。
そこに何が現れるかっていうのは、この場合でいえば、「本当のわたしの願い」が現れる。本当の自分の質や、自分を構成する要素みたいなものが。
これこそ、Cの抽出。出来事の表面をさらって、感情的に対立したころで、基本は平行線のまま。
「性格の不意一致で離婚した」という事象から「本当のわたしの願い」である理想のパートナーシップ像を見つけ出したり、本当のわたしが望む愛し合うとはどういうことか?を見つけ出したり。そうすることで、真のパートナーが見つかったりする。これがCの抽出ってこと。
▶︎嫌いをゆるす本当の意味
これは「好きって反応を無駄にしないで!」ってことなんだけど、好きという感情の行き着くところは、度を超えて恨み辛みに行き着くのではなくて、もっとその先、もっと深くにある「本当のわたしの願い」
相手が叶えるものじゃなく、埋めるものでもなく、「本当のわたしの願い」なのだから、自分で責任もって叶えようってこと。
好きという感情の行き着くところがわかれば「相手を受け入れる」「相手をゆるす」にはどうしたら?なんてレベルでモヤモヤするんじゃなく、好きな人の中ある嫌いの正体は「本当のわたしの願い」なのだから「好きな人の中に嫌いがあるということを赦す」って自分の豊かさに気づくこと!だってことじゃんか〜。ってわかってくると思う。
▶︎ちょっと余談
どこかの記事で読んだ心理学者の先生によると、討論というのは「自分の意見を変える覚悟」がないとできないし、はじまらないのだと。
討論というか対話がそうだよね。ディベートのように、相手の考えをやり込める…というのは、討論ではない。討論というのは、1つの共通目的にたどり着くための対話なのだから、自分の意見が正しいことを証明する場ではない。
哲学で言えば、「誰にでも共通する普遍性を見つける」という学問としての目的があって、そのために、自分なりの哲学を体系立ててシェアするけれど、もちろん全然違う意見があっていいし、違う意見が無いと哲学の目的は達成されないのだから、自分の正しさの証明のためだけでは学問が成り立たない。
う〜ん…つまりは「〜られた」「〜された」から、自分は育まれないってことだよなあ〜。
あ、ここの繋がりはかなり個人的な世界での納得感です(汗)
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