ずっと自由になりたかった
20代半ばから30代半ばくらいまで、ふと気づいたら「自由になりたい」と思うようになっていました。
その「自由」とはなんなのか。
自分でもよくわかりませんでした。
でも漠然と息苦しくて、なにかに縛られていると感じていた。
友だちに軽くその気持ちを吐露すると、ある子は
「え、なに、まだ自由にし足りないのwww」などと笑ってきました。
(私のなかで「www」ってやつは、軽い嘲笑の意味だと思ってる)
そんな友だちとはやっぱり現在はつながっていませんが。
その子はなぜ「まだ足りないのか」と言ったのだろう?
私が何度か転職したり、自分の思う道を進んでいるように見えたから?
当時の世間の「こうあるべき」みたいな枠組みから逸脱しているように見えたのでしょうか。
私にとってそういう行動は、全然自由を感じなかった。
むしろ、私はどうしたいのかなと真剣にもがき苦しんだ結果としてたまたまそうなってしまったと言ったほうが自分としてはしっくり来る気がします。
私はなにから自由になりたかったのか。
結論を言えばたぶん、「自分」から。
最初はなにかで読んだか聞いたかしたのだと思う。
自分をいちばん縛るのは「自分」だと。
ものすごーく腑に落ちました。
自分がいちばん、自分を許せなくて枠にはめるのです。
世間がなにを言おうとも、「自分」がGOサインを出せば絶対に進める。
だけど、いくら周囲がやっちゃえやっちゃえと言っても、「自分」がダメだと言えば絶対に進めない。
世間の常識や周囲の意向に沿っていくと決めるのも
自分の思う道を行くぞと決めるのも
まぎれもなく「自分」。
もちろん、周囲の考え方や時代の空気には大いに影響を受けるでしょう。
だけど最終的に決めるのは自分だけ。
私の胸の奥だか腹の底にじっとしている「自分」から自由になりたかったし。
さらに言えば、その「自分」をなにかから自由にしたかった。
……考え続けるとエンドレスになりそうですが。
だけど。
結局は自分で決めているのだと確認することは、なぜだか私の気持ちを少しだけ軽くしました。
なにか得体の知れないもののせいで苦しんでいるのかと思っていたけれど。
自分が決めているなら仕方ない。
……というか、自分が決めることなら変えられるという、ほんのりした希望みたいなことなのかもしれません。
自分を縛っていたのは自分だったとわかってからも、すぐに楽になったわけではもちろんないけれど。
ちょっとずつちょっとずつ進んできました。
今だって完全に自由なわけではないと思う。
それでも、焦燥感のような「自由になりたい」という欲望は薄くなりました。
なにかたとえば職場とかで少しくらいモヤッとすることがあっても
「自分でこうすると選んだんだったな」
と確認するのはガス抜きになっている気がする。私には。
状況がたとえ変わらないように見えたとしても、「どうにでも自分で決められる」と知っているというのは、ある種の自由なのかもしれない。