罪と改心
続きである。
唐突であるが、このテの発言に違和感を抱いたことはないだろうか?
「一切記憶にございません。」
「やっていません。」ではないのだ。「記憶にない。」と言っている。
何故こういう言い方をするのだろう?と思っていた。
ところで、
罪
とは何だろう。辞書的定義では、「法を犯すこと」といったことだし、聖書では、「神の御心に背くこと」である。だが、今僕が思う罪は、ちょっと違うものだ。
答えを言ってしまおう。それは、
内なる自分に背を向けること
である。
ニンゲンにしてもパリサイ人にしても、自分が信じるものがあっただろう。
だが、目の前に現れたイエスとその所業を目の当たりにしながら、それを認めることが出来なかった。
見えているのに・・である。
これが、「内なる自分に背を向けている」状態だと僕は考える。
問題は、気付いているのに従わない、ということに尽きる。
この「罪」を認め、
改心
すること。
ニンゲンが人間になるためにはこれが必要で、例えば「日月神示」では、「曇り」や「掃除洗濯」という言葉で表現されていると思う。
だが、聖書でも日月神示でも、何故かニンゲンはこれが出来ない。
そこで冒頭の「発言」であるが、その発言者は、「罪の意識」を持っているように思われた。であるが故に、「やっていない。」とは言えないわけだ。
正直ですね。
しかし、残念だが、彼は救われないだろう。
人は罪を犯す。僕だってそうだ。
だが、改心し続けることは出来るのではないか。
最後に、この一節を紹介しておきたい。
()の数字は、動画におけるタイムです。
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