本当の壁
先日の続きである。
何が自分の壁なのか?
考えてみるのだが、今一つ弱い。
お金
親
家族
このような言葉が心に浮かぶのだが、何かが違う気がしてしょうがない。
かすってはいるのは間違いないのだが・・
何が違うのか?
それがわからず、思考はループしている。
そんな状態で僕は、父の神社を出たわけだ。
車を農村に向ける。ルートは途中、氏神様の横を通ることになる。
氏神様のちょい手前で、突然、頭に言葉が浮かんだ。
僕は、自分の我を通したことがない。
少し驚いたが、僕は車を走らせながら、考える。
すると、話がつながった。
僕は自分の我(が)を通したことがない。
この場合の「我を通す」とは、わがままとかいうことじゃなくて、「やりたい」と思ったことを、何かを理由にあきらめない、ということだ。
何かやりたいことがあったとする。
「お金がないから、あきらめよう。」
「親の面倒を見ないといけないから、あきらめよう。」
「家族が優先だから、あきらめよう。」
僕は、今までこのように生きてきた。
理由は、僕の生い立ちにある。
・・自分を殺すという、処世術。
自分の魂が「やりたい!」と叫ぶようなことでも、僕はあきらめてきた。
火が炎に変わる前に蓋をする。
火を消す=「あきらめる」ということが壁なのであって、お金や親などは壁の材料に過ぎないのだ。
思考のループが消えた。
この壁を越えよ。
氏神様、ありがとうございます。
動け、現実。
今、何かが軽い。