写し鏡
天孫降臨の話を例にとろう。
高天原から、集団が地上に降りてきた。
この場合、降りてくるのは神、天津神である。
だが、こういう見方もある。
大陸や半島から、人がやってきた。
この場合、やってくるのは人である。
また、こういうこともある。
宇宙(ソラ)から、見たこともないものがやってきた。
この場合、やってくるのは、高次の生命体である。
一体何が本当なのか?そう思いがちなのだが、違った考え方もできる。
それが、
写し鏡
ということ。
どれも本当。まるで鏡に映るように、「上」で起こったことが、順に「下」に写し出されているだけだ。同じことが起きていると言ってもいい。
天界の掃除は終わっている。
霊界の掃除も終わっている。
残るは現界、その掃除の最中だ・・というのも、この「写し鏡」の仕組みを考えれば納得できる。
どれもウソではない。
ただそこに、「タイムラグ」はあるかもしれない。
「起きる」ということは決まっている。ただそれがいつで、どのようなことかは誰にもわからない。
だが世相を見るに、何かが「眼に見えるように」写し出され始めたように思える。それは、「気付け」ということに他ならない。
だから・・
上から下、抗えない大きな流れに身を任せつつも、そこで
自分とは何者なのか
を具現していこう。
多分それは、何だっていい。
僕にとって「草刈り」とは、そういうものである。