高貴であること
気付きがあったのでnoteしておく。
唐突であるが・・・
高貴
であること。それ自体は悪くない。しかし、
高貴であろうとする
が故に、「歪み」が生ずる時がある。
ここを気を付けなければならない。
例えば、小さな子供がいるとする。まだ躾も行き届かず、やっていいことといけないことの区別がつかない。
その子が「やってはいけないこと」をやったなら、叱らなければならない。「教える」という意味である。
だがそこで「子供のやることだから・・」と大目に見てしまったらどうなるか。それは高貴でもなんでもなく、子供は事の善悪を知らずに育ち、自分は、何かを
歪めてしまった
とになる。
ここは「高貴」でなくともよいのだ。
もう一つ例を挙げよう。
何かが欲しいという局面。それもちょいとお高いもの。
直感的に「ああ、これ欲しいな。」と感じるが、それに
高貴な理由
を付けようとする。
~のためだとか、自分へのご褒美だとか。
するとそこに
淀み
が生じる。
どうせ”考える”なら、どうやったら支払えるだろうと、道を開く策を考えたほうがいい。
要するに・・
頭の中だけの高貴ではダメなのである。
じゃあ、そこにハマっている時はどうするか?
それは、
実直
の方向に舵を切ってみることだ。
実直とは行動することである。
子供の話なら、意識の視点を下げて叱ってみる。
欲しいものの話なら、素直に、欲しいと思ってみる。
・・こんな具合に。ただしばらくはトレーニングが必要だね。(笑)
僕にはこの傾向がある。なんとなく、その思考パターンを感じていた。
すーっと流せてないなあ・・
と思う時である。
これは「執着」の裏返しとも言える。物事に執着する理由の一つにこの「高貴であろうとすること」があるかもしれない。
これで内観のツールが一つ増えた。
無理に高いところから見ようとしていないか?
そういうことかと思う。
備忘録に代えて。