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私が「走る」という行為を憎む理由
私は、「走る」という行為が嫌いだ。いや、憎んでいると言っても過言ではないだろう。子どもの頃から運動全般が苦手だったが、特に走ることには悪夢のような記憶が詰まっている。体育の授業で強制されたマラソン大会、運動会のリレー、そして日々のランニングテスト——それらは私にとって、公開処刑以外の何物でもなかった。
走るのが遅い子どもにとって、マラソン大会は苦痛の極みだ。私もその一人だった。小学校のグラウンドを何周も走らされる中、私はいつもビリに近かった。「がんばれー!」という声援は表向きには応援のようで、実際には「お前、遅いぞ」というプレッシャーの塊だった。私が一生懸命に走ろうとすればするほど、周囲の期待と失望が絡み合い、自分が「ダメな子」と烙印を押されたような気分になった。
ただ走るだけならまだしも、タイムを計られるという地獄もあった。「次は自己ベストを更新しよう!」と言われても、それがどれだけプレッシャーになるか、教える側には想像もつかないだろう。タイムを計測する先生のストップウォッチの音、他の子どもたちの冷ややかな視線——それらが積み重なり、走る行為そのものが嫌いになったのだ。
運動会はさらに過酷だった。私の走りの遅さはクラスメイトにも知られており、リレー選手には絶対に選ばれない。「あいつが走ったら負ける」と言われた言葉は、今でも鮮明に覚えている。リレーのアンカーに選ばれるのは足の速い子で、私のような遅い子は「邪魔者」として扱われた。走るのが遅いだけで、どうしてこんなに辛い思いをしなければならないのか——子どもの私には理解できなかったし、大人になった今でも理不尽だと思う。
ある年、体育の先生が「楽しむことが大事だ」と言いながら、チーム対抗のリレーを企画したことがあった。私はその時、クラスメイトから無言でプレッシャーをかけられ、「絶対に遅れるなよ」と念を押された。結果、私は転倒した。転んだ瞬間、頭が真っ白になり、痛みよりも羞恥心で胸がいっぱいになった。クラス全員の視線が私に向けられ、涙が止まらなかった。
「走る」という行為は、ただの身体運動ではない。私にとって、それは評価され、否定され、そして恥をかかされる行為だった。
社会人になり、ランニングが趣味だという人たちと出会うこともあった。ランニングイベントやマラソン大会に参加している話を聞くたび、私は彼らの世界が理解できなかった。私にとって「走る」という行為は楽しいものではなく、苦痛の象徴でしかない。ある時、ランニングに誘われたが、丁重に断った。すると「一緒に走ると楽しいよ!」と言われたが、私は心の中でこう思った——「楽しいのはあなただけだ」。
日本の体育教育が悪いのか、それとも私の性格に問題があるのかは分からない。ただ、少なくとも私にとって「走る」という行為は、人生において避けたいものである。
最後に思うのは、「嫌いなものを好きになれ」という風潮が、いかに不毛であるかということだ。私のような人間にとって、それは不可能に近い挑戦であり、むしろ余計に苦手意識を強めるだけだ。私が「走る」という行為を再び受け入れる日は、永遠に来ないだろう。