現代人の解なき問い
諸説あるが、人間という動物はその種族としての歴史のほぼ全てを、狩猟採集民として過ごしている。500万年の人類史の中で農業が始まったのはおよそ今から1万年前。499万年は狩猟採集民として生きていたということだ。つまり、私たち人間は、そもそも現代社会に対応した本能や機能は全くと言っていいほど備えていない。
にもかかわらず、私たちは日々現代のテクノロジーに満ちた刺激に晒され続けるし、一個体としては現代の環境しか知らないため、それが自分の生きる場所だと思い込む節がある。
現代人は、「生きる意味」でよく悩む。しかし進化の観点に照らすと、私たちの脳はそんなことで悩むことに適した形で進化していない。この時代が数百万年続くなら進化のスピードもあるいは時代に対応するかもしれないが、進化などという気が遠くなる話は、現代を生きる我々には無関係である。
人間の生きる意味は人間が奪った
「神は死んだ」
19世紀のドイツ人哲学者 フリードリヒ・ニーチェが著書「ツァラトゥストラはこう言った」で述べた有名な言葉である。
彼は19世紀という宗教が大きな力をもつ時代に生きていた。ニーチェは科学の発展とともに、人間たちに生きる意味を与えていた宗教は力を失う、すなわち人々の絶対的信仰の対象である神は死ぬ、人間たちの手によって神は殺される。と予見していたのである。
詳しい説明は割愛するが、私はここに宗教と哲学の違いがあると思う。
宗教は人々の生き方に答えを与える。科学の発達以前の世界では、神職者は思想的にはもちろん、政治的にも大きな力を持っていた。人々は人生に息惑うことはなかった。なぜなら全ての人々の生きる意味は、信仰する神によって与えられ、もしわからないことがあれば神に近い存在である神職者に教えを乞いさえすれば全て解決した。
哲学は疑いを持ち続ける姿勢である。現実と直面しながら、人間や社会のあり方について慢心することなく疑問符を打つ姿勢そのものが哲学的態度であり、進歩の方向性を決めてきた、いわば我々人間にとっての舵のようなものである。
科学は全ての人間に対して平等であり、それは同時には人々が今まで生きるために追い求めてきたもののほぼ全てを私たちに提供した。
自然科学の発達がきっかけで全員が生きられるだけの食べ物の製造が技術的に可能になり、社会科学の発達によって全ての人間にそれを行き渡らせる仕組みと、各人の仕事の確保が可能になった。
その他、娯楽やその他サービスなども発達し続け、人間が自然に思いつく欲求はすぐに満たせる様になった。
現に多くの人は食べ物にも仕事にも娯楽にも困っていないだろう。
そしてコミュニティの形成も容易になった、彼氏や彼女、パートナーを見つけるのも、昔ほど難しくはない。
人間はついに、科学を発達させることによって、本来生きる意味であった生存と、繁栄のための生殖行動の継続的な成功を実現するに至ったのだ。
現代は、死の恐怖と向き合うことは健全な精神で生活を送ることができる、素晴らしい社会になっているはずである。
現実はそうだろうか?
生きるために、でなければ一体私たちは日々何に不足を感じ、渇望を抱えながら生活しているのだろうか。何のために生き、何のために死んでいくのか?
何をしたら自分は幸福でいられるのか?
そもそも自分にとって幸福とは何だろうか?
幸福の基準は何で測るのか?
幸福に生きることを実現したとして、そのあとはどうなるのか?
幸福を死ぬまで持続させることは可能なのだろうか?
幸福のために生きることは正しいのか?
問いは尽きない。ただ、それでいいのかもしれない。
日々自らの人生と全力で向き合い、時には失敗し何かを学び、時には成功して快楽に浸り、ただだだ無意味なことを繰り返し続ける人生に自ら問いを立てることで意味を見出していく。
本来何の意味もない、ただあるだけのこの世界に自分なりの味や香りをつけていって自己満足することだけが、人生の意味なのかもしれない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?