日本BGMフィルに見た夢(13) 「暗転」

■暗転

(いったい何があったんだ…)

2014年3月8日。
BGMフィル第二回公演の昼の部を聴き終えた私は、動揺を隠すことが極めて難しかった。
会場で居合わせた知人を見送り、ひとりになると公演を振り返り思索を巡らせた。
演奏は素晴らしいものだった。
しかし他の全てが第一回と異なっていた。
いったい何があったのだろうか。
たった数ヶ月の間に。

日本BGMフィルハーモニー管弦楽団の第一回公演は大盛況の中で幕を閉じた。
会場で耳にした評判はもちろんのこと、ニュースサイトやブログ、SNSなどの反応を見ると、公演は大好評だったと言えるだろう。
もちろん運営側や奏者達はさらなる課題を持ったことだろうし、訪れた人達も様々な感想や、今度はこうして欲しい!というそれぞれの思いや要望を抱いたに違いない。
特に第一回公演の噂を聞きつけたものの会場を訪れることができず、次こそはと思ったゲーム音楽ファンも多かったのではないだろうか。
前回に勝る多くの人が第二回公演に期待したことは疑いようがない。
しかも今回は昼夜二回という豪華な布陣での公演だ。
第一回公演で配られたプログラムには、ファミリー向け公演という記載もあった。
今も昔も子供達はゲームの大事なパートナーだ。
また、小さい頃に本物のオーケストラに触れることは教育的な観点からも素晴らしいことに相違ないし、きっと音楽の楽しさを感じてくれるだろう。
私は第一回公演を後にした時点で、次回も素晴らしい公演になるだろうと早くも期待に胸を膨らませていた。

しかし、時が経っても次の演奏会の情報は少なく乏しいものだった。
半年という決して長いとは言えない次回公演への期間の中、もう少し告知や宣伝をしても良いのではないかなと思ったくらいだ。
SNSやブログ等で精力的に発信していた市原指揮者も第一回公演以降は言葉少なげに感じたのも気がかりだった。
そろそろ年が明けようとする頃、ようやく第二回公演チケット発売の報せが届く。
明けて1月の初頭、私は早速昼夜公演のチケットを予約した。
チケットにはBGMフィルの他に見慣れない団体の名前が記載されていた。
公演のタイトルも替わっている。
内容が変更になったのだろうか。
気にはなっていたものの、当時はそのことが重要な意味をもつことだとは気がつかなかった。
いつもは盛り上がる奏者やファンもどことなく静かに思えたが、年末年始ということもあり忙しいのだろうと単純に考えていたし、私自身も日々の生活の中でいつしかそのことから離れていた。
3月になればまた素晴らしい演奏、見事なステージを見せてくれるということに何の疑問も感じていなかったからだ。

しかし。
公演まであと1週間と迫る2014年3月1日。
音楽監督を務める市原雄亮氏が自らのブログに気になる記事を投稿する。
「3月8日の公演について」と題されたその記事は公演を前にする音楽監督の記事としては異例とも言える内容だったことに驚いた。

3月8日の公演について http://blog.185usk.com/2014/03/post-45517.htm

要点としては、3月8日の公演はあくまでも指揮者としての出演であること、選曲や舞台演出への関与はしていないということだった。
いったいどういうことだろうか。
音楽監督が自らの公演の音楽に関与しないということがあるのか。
基本的に音楽監督はそのオーケストラの演奏全般や曲目の決定など音楽的な決定権を握る存在と考えていい。
もう音楽監督では無いという意味合いだろうか。
しかしそういったリリースも出されていない。
もしそうだとするならば指揮者としてタクトを振るということがあるのだろうか。
そもそも市原氏自らが立ち上げた管弦楽団であり、長く中心として支えてきただけでなく、第一回公演を無事に成功させている。にも関わらず、音楽監督が、市原氏がこのような立場に置かれることがあるのだろうか。
チケットやWebサイトに名前がある団体。
彼らが関係しているのだろうか。
そもそも彼らはどこからやってきて何をしているのだろうか。
よく見ればチケットに第二回公演の記載はない。
多くの人が今回の演奏会はBGMフィルの第二回公演だと思っているはずだ。
一体何が起きているのだろう。
何が起きたというのだろう。
様々な疑問が浮かんでは消えていく。
それは私だけでは無かっただろう。
今までBGMフィルに共感し、応援を続けていた人なら誰もが感じたのではないだろうか。

疑問に答えが出ないまま、3月8日の公演を迎えることとなる。
会場を訪れた私は、ゲーム音楽好きの知人と偶然出会うことができた。
現在彼女は家庭を持ち、家事に子育てにと忙しい日々を送っている。
私のSNSでの発言などでBGMフィルに興味を持ってくれたこともあり、時間を作って公演を訪れてくれていたのだ。
知っている人が自分が応援している存在に興味を持ってくれることは、何とも嬉しいものだ。
また、BGMフィルという存在がゲーム音楽を大切にしながら日々をつつましく過ごしている市井の人々の楽しみになっているという事実に、自分のことでもないのに何やら誇らしい気持ちになってしまう。

しかし、その気持ちはほどなく不安へと変わる。
会場に入るなり目に飛び込んできたのは、ドレスにティアラというお姫様然とした格好で手を振る、今までの公演で見たこともない女性の姿だった。

...コンサートプリンセス...?

この時点で今回の公演が予想していた以上に不安なものであることを感じていた。
なぜコンサートにお姫様の衣装を着た女性が必要なのだろうか。
少なくともそれは今までのBGMフィルからはもっとも遠い存在に感じられた。
訪れた人々も写真を撮ったり声をかけるでもなく、遠巻きにして通過して行く。
ロビーに佇むその姿は明らかにその存在が浮いていた。
彼女のせいではないだろうが、いったい何のためにいるのだろう。
知人も苦笑していたが、私は「いや、前回はいなかったよ…」と力なく説明するだけだった。

演奏前にマスコットキャラクターの前説。
乾いた笑いと失笑が聴こえたのが印象的だった。
そもそもBGMフィルにマスコットなどいただろうか。
新しく登場したというのだろうか。
それもまた今までのBGMフィルが遠ざけてきたものだ。
「ゆるキャラ」全盛の昨今、必要ならばもっと早い段階でキャラクターを導入しただろう。
子供向けやローコンテクストを狙ったビジネスにはそういったキャラクターが効果的であることは間違いない。
しかしBGMフィルはそういう団体だっただろうか。

それでも、幕が開けばー
不安を吹き飛ばすようなステージがこの時点で会場に淀む雰囲気を跳ね除けてくれるに違いない。
市原氏の軽妙なトークと見事な指揮、奏者達の素晴らしい演奏が。

そんな希望をよそにステージに現れたのは司会を務める若い女性2人だった。
このような舞台に慣れていないのだろうか。
残念ながら進行もトークも私達が期待していたものとは異なっていたように見えた。
シナリオに問題があるのか慣れないからなのか、希薄で冗長な司会は演奏の進行と観客の演奏への集中を妨げるようだった。
曲間で2人が話し始めると、静かにしていた観客もやがてざわざわと話し始めるようになっていた。
私も長年様々なコンサートや演奏会に足を運んでいるが、こんなにも客席がざわついていたのは初めてのことだった。
今までの公演では饒舌にゲストや奏者とトークを繰り広げて観客を楽しませた市原氏とほとんど会話が無かったことも不自然だった。
それどころか、昼の部では指揮者を紹介し忘れるという大きなミスをする。
どこの世界にコンサートの指揮者を紹介し忘れる司会者がいるのだろうか。
不慣れな上に緊張したということもあっただろう。
こういう場合は影にいるスタッフがフォローし、後からでも紹介をいれて壇上で頭を下げれば済む話だ。
このことは他に問題がある可能性を示唆している。
ステージマネージャーやバックでサポートをする運営やスタッフは何のためにいるのだろうか。
可哀想なのは彼女達である。
本来なら様々な才能もあるだろう彼女達が、その日の司会では自分たちの魅力を十分に発揮したようには見えなかった。
進行や段取りなどを運営やサポートがしっかりと支えていれば、もっと輝くこともできただろう。
周りの大人達は何をしていたのだろうか。

やがて市原氏がタクトを振り、演奏が始まる。

巨大なスクリーンに次々に映し出される映像とライトによる演出。
これも今までの公演には無かったものだった。
それもそうだろう。
過剰な演出が音楽を楽しむ妨げになるのは、舞台演出を学ぶ者なら誰もが知ることであり、素人にもわかることだ。
演奏後の感想を見聞きすると、とにかくライトの光が目に刺さるようで気になったという意見が目立った。
私自身もはっきり眩しいと思うことが少なからずあったことを覚えている。
スクリーンの映像による演出も高度なものであるとは思えなかった。
少なくともオーケストラ演奏を彩るために必要な映像のレベルであるようには感じられなかった。
そもそもそれはゲーム音楽を表舞台に、と高い目標を掲げたオーケストラがすることだろうか。
また、演出に凝る割にはステージの上で撮影スタッフが目立つ動きをしていたことも気になった。
撮影は演奏者にとっても観客にとっても非常に気になる行為だ。
記録を残すのは必要かも知れないが、少なくとも観客に気になるような配置や撮影をするべきではないだろう。

ノスタルジアというコンセプトも気になった。
優れたゲームは時代を超えて輝くものだ。
発売されたのは何十年も前でも携帯ゲーム機やスマートフォンのリメイクで今なお現役であったり、新しいファンを獲得し続けているシリーズもある。
共通体験として考えるのも実は難しい。
ゲームの世界はすでに40年が経過しようとしており、ゲームタイトルの数もファミコンの1242本からさらに時代を経て、今や数万はあると言えるだろう。
ファイナルファンタジーが好き。ドラクエにハマった。子供の頃にポケモンをやったよね。
それは世代によってプレイするタイトルが変わり、見ていた景色が全く変わってくるだろう。
何よりも、「懐かしい」「ノスタルジーを感じる」というのは一時的な感情だ。
しかしながらプレイしたゲームひとつひとつを大切にし、その時に流れていた音楽を愛するということは永続的な感情であるといえるだろう。
とりわけゲーム音楽はゲーム機という制約を受けない。
CDで、iPhoneで、いつでもいつまででも聴くことができる。
そのゲームをプレイしたことが無くとも、大好きで大切なゲーム音楽があるという人は多いだろう。
しばらくゲームから離れている人達や、忙しくてゲーム機に向かうことができない人達も、音楽ならいつでも聴くことができる。

ゲーム音楽ファンは懐かしくて聴いているのではない。
好きだから聴くのだ。
素晴らしい曲だと思っているから聴くのだ。
バッハやベートーヴェンの名曲を聴いた時に「懐かしいな」とか「古いな」と思わないように、新しい発見や若い時には気がつかなかった美しさを感じるように、過去も現在も越えて今なお新しい気持ちで「良い曲だな」と思って耳を傾けるのだ。

昼の部が終わり、会場を離れる間、周りの人達の会話から演奏は良かったけど…という会話がいくつも聞こえてきた。
会場で出会った知人が司会や演出に苦笑しつつも、演奏の素晴らしさ、自分の大切な曲がオーケストラで演奏される感動を語ってくれたことが救いになった。
本当はこんな感じじゃなかったんだよ…。
そんなことを言った覚えがある。
彼女の感動を打ち消さず、自分の複雑な感想を伝えることがとても難しかった。
そして悔しかった。
彼女のみならず、初めて訪れた人達がBGMフィルをそういう団体だと思うのではないかと。
ゲーム音楽や演奏で魅了するのではなく、それ以外のレベルの低い仕掛けで目を引くような団体なのかと。

この日のBGMフィルの演奏は素晴らしいと思えるものだったが、緊張感が漂うものとなっていた。
コンサートミストレスをつとめた小林明日香氏の終始張りつめた表情がすべてを物語っているように感じた。
彼女が、そしてBGMフィルの奏者達が研ぎすまされた演奏をすればするほど、私の胸中は複雑さを増していた。
なぜこんなに素晴らしい演奏をするのに、自分達の自主公演を行わなかったのだろうと。
なぜ他の団体に公演を委ねたのだろうと。

夜の部も昼の部と同様に進行し、演奏会は終わりを迎える。
この日一番の拍手は夜の公演で市原雄亮氏が紹介された時に贈られた。
観客のフラストレーションが一気に解き放たれたように感じた。
今までとかけ離れた公演に加え、昼の部においてBGMフィル最大の功労者と言って良い市原氏を紹介しなかったということへの観客の強い意思表示でもあっただろう。
今思えばそれは、BGMフィルに手向けた観客の、私達の最後の意思表示となった。

 ひとつだけ言っておきたいのは、私はひとつひとつの演出方法や考え方についての否定的な見解を述べているわけではない。
コンサートプリンセスにしても、本来なら私はむしろそういう無意味なことが大好きな人間だ。
気になるのはせっかくのお姫様が、観客の思い出や、音楽を楽しむための演出になっていたのかどうかということだ。
たとえば、市原氏が「休憩の間はみんなプリンセスと写真撮ってね!」とか言えば微笑ましい撮影会で休憩時を和ませたかもしれない。
司会をつとめた女性達も無理に盛り上げずに、一歩引いて進行をするにとどめ、演奏会の流れを壊さず、今まで長く司会の経験のある市原氏を立て、BGMフィルのメンバーとコミニュケーションを取り、観客がリラックスして演奏を楽しむ雰囲気作りをするという方法もあっただろう。
それができない人達ではないように見えたし、事実夜公演は昼よりも安定感が出ていた。
演奏中の演出に関しては他のコンサートでも未だに賛否があり、採用する演奏会もあればまったく行わないオーケストラもある。
クラシック音楽の公演では過剰な演出どころか、奏者が出て来て一礼して演奏を行い、一礼して去って行くような、演出の入る隙間の無いような公演も多い。

大げさかもしれないが、オーケストラは人類が生み出した芸術の中でも至高の存在のひとつだと私は思う。
何百年という時を生き抜いて来た楽曲、同じく長い時を刻んで来た楽器、もはや人類の歴史のひとつといってよい音楽家達に連なる奏者達。
彼らは歴史上の名音楽家から綿々と連なる教育者達から学び、研鑽し、自分の一生の大部分をかけて自らの音楽技術を磨く。
そんな奏者が一堂に会してひとつの音楽を作り上げるのだ。
彼らの音に何かを付け足す必要があるだろうか。演出をする必要があるだろうか。
私自身は音楽が主役のオーケストラ演奏会に派手な演出は不要に感じているが、やはり派手で見応えのある演出を楽しみにしている観客も少なからずいるだろう。
もちろん、公演にもよるが、優れた演出がある公演なら時には見てみたいと私自身も思う。
それが演奏を楽しむ妨げにならないのであれば。
ライトが眩し過ぎる、ステージの見える位置でカメラが歩き回る等はステージ演出に携わる者ならそれがどういうことかわかるのではないだろうか。
今回の演奏会に共通しているのはゲームと音楽、奏者と観客への配慮の足りなさ、リスペクトの低さだった。
観客には素晴らしい演奏を聴いてもらって楽しんでもらおう。
奏者には何もかも気にせず力一杯素敵な音楽を作ってもらおう。
そういう気持ちがあったならば、今回の演出もまた異なって観客に届いたのではないだろうか。

今回の公演で新たに加えられた要素はどれもこれもがゲーム音楽を演奏するプロオーケストラの助けにはならず、これまで奏者と楽器だけで観客の心を動かしてきたBGMフィルには不要なものであったことは間違いないだろう。

私はどんな演出も趣向もコンセプトもあってかまわないと思う。
それがファンや観客を楽しませ、ゲームとゲーム音楽に敬意を払ったものであるならば。
奏者と観客、ゲームや音楽の作り手と受け手をつなぐ心があるのであるならば。
それはBGMフィルが一貫して大切にし続けてきたものである。
果たして今回の公演で観客はそれを感じることができただろうか。
その答えはあの場所にいた全ての人達に委ねたい。

3月8日の公演後、胸に去来する嫌な予感から目を背けつつ日々を過ごしていた。
同じように感じていたファンも多かっただろう。
何とかしてもう一度、第一回演奏会のような素晴らしい公演を聴きたいと思っていた支持者もいたことだろう。
今まで訪れることができなかったが、今度こそ演奏会に足を運びたいと願っている人達もいただろう。
だが、予感はついに現実となって訪れることとなる。

2014年3月31日

日本BGMフィルハーモニー管弦楽団は終焉の時を迎えた。

この国に初めて生まれた”ゲーム音楽を演奏するプロオーケストラ”
彼らは誕生から2年足らず、初めてのアンサンブルコンサートから1年、そしてフルオーケストラでの第一回演奏会からわずか半年で姿を消すこととなった。

数行にも満たない発表は告げていた。
日本BGMフィルハーモニー管弦楽団として市原雄亮がタクトを振り、小林明日香が、BGMフィルの奏者達がホールを響かせ、観客を熱狂させファンを陶酔させる。
その日が訪れることはもう無いのだと。

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