1000日間の多拠点生活で1番心が動いた場所
「来て」
ポスターにはこの2文字と1枚の写真だけ。
今回訪れた場所の公式イメージポスターだ。
全ての道程を終えてこのポスターを見返すと、
これほど表せている言葉はないと思った。
その場所こそが福島県。
福島県でも東日本大震災で原発被害をうけた12市町村から浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町に訪れた。
僕はアドレスホッパー。
月額定住サービスADDressを使って、
北は北海道から南は沖縄まで
延べ36都道府県・96拠点で多拠点生活をしている。
もうこの暮らしをはじめて
ちょうど1000日を超えたところだ。
今回、5つの町に訪れたのは、ADDressのとあるプロジェクトがきっかけだった。
「にっしー、震災の被害を受けた福島の地域に一緒に来てくれない?」
東日本大震災があった2011年は大学生だった。大阪の実家で母親とテレビをみていて、津波や地震の様子に切り替わったことを覚えている。
関西は地震も特になかったし、一方で被災地はあまりにも甚大な被害だったので、どこか現実と思えない自分がいた。
そこから11年の月日が経ち、東京に1人暮らしをしたり、多拠点生活を始めたりと、福島との距離が近づいているものの、まだ訪れたことがない地域だった。
「そこに拠点があるから」
いつもはそんな理由で軽い気持ちで足を運ぶ。実際に行ってみることで、思ってもいなかった地域の魅力や交流に触れて、結果的に何度も足を運ぶ場所へと変化するからだ。
ただ、今回はまた違う。
場所の名前や状況はメディアで聞いていて認知もある。でもどこか避けている場所だった。
「復興」というワードも聞いているから、他の地域と同じように足を運べる拠点ではあるのに。
それは観光を目的に多拠点生活をしているわけではないが、福島の原発被害を受けた場所の認識が強く、
「今この土地に住む人は悲壮感が漂っているのでは?」
そう勝手に思い込んでいたんだと思う。
「一緒に行かないか?」と、声がかかった時、僕は震災や原発被害の風化を防ぐために、原発や津波被災の資料館をまわり、住民の方と交流するんだろうなと思っていた。
というのも、多拠点生活ではさまざまな地域で実際に暮らしてみるのだが、地域の特色や文化を残していきたいという想いを持つ方や行政によく出会うからだ。
何か自分の経験や感じたことがこの被災地のためになるなら、少しでも役立てたらと思って二つ返事で承諾。
一方で僕はなるべく先入観を持たずに自分の感じたことを大切にしたい。
なので事前に調べたり、詳しい内容も聞かないようにして現地に行った。
2022年11月30日
28日からたった3日間のホッピングだったが、結果から話すと、これほどいろんな感情になったホッピングは無かった。
■ 双葉町
双葉町は福島第一原子力発電所が立地する町。原発事故のため、双葉町のすべての住民が避難を余儀なくされた。
そして避難指示の対象となった原発周辺の12市町村の中で最後に住民の帰還が始まった町でもある。この帰還こそが2022年8月で実に11年ぶりの帰還。
今は30人程度が帰還したが、震災前の人口は約7000名だった。
まだ帰還可能な場所は一部であり、2011年当時の状態がそのまま残っている。
ここだけ時がとまっていた。
■ 浪江町の請戸小学校
東日本大震災の遺構施設。300m先には海が広がり、港町だった。
震災当時、全児童数は93名だが、教員の迅速な対応もあり、誰1人死者が出なかった。
浪江町の震災による直接死は182名。その85%がこの小学校のある請戸地区の人々で大半が水死だったにも関わらずだ。
請戸小学校に訪れた時、どうすることもできない、正直何をしたらよいのかわからない気持ちになった。
広島の平和記念資料館を訪れた時と同じような気持ちになったが
「戦争を二度と起こさない」「核兵器が二度と使わせない世界にすべきだ」
と次に向かうところが見えていたが、今回はそうではなかった。
自然による脅威であり、いつどこで起きてもおかしくない。もちろん対策を行なって被害を最小限にすることも1歩だが、想像の範疇を超えるのが自然だ。
こればっかりは受け入れるしかないのかと、気持ちの持ち方がわからなかった。
見渡すとサラ地が広がっており、見えている建物は全て新しい建物だ。
この景色が何を表しているのか、請戸小学校をみることで気付かされた。
ただ街の人達と話すと伝えたいことは「悲惨さ」ではなかった。
■ 富岡町
「ふたばいんふぉ」は、双葉郡8町村の情報をまとめて展示する唯一の施設。
富岡町出身であり、富岡A邸の家守である平山さんが「ふたばいんふぉ」を立ち上げており、お話ができた。
平山さんとの会話が僕の人生で初めての東日本大震災の被災者でもあった。
震災の時、何も役立てない無力感があったそうだが、周りの取り組みをみたことで自分のできることをすすめた。
「富岡は負けん」
原発事故から5ヶ月後に、この6文字を書いた横断幕が平山さんによって取り付けられた。
「絶対に帰ってやると思っていたよ。」
富岡町は2017年4月に帰宅困難区域を除いて解除された。
10年以上の歳月がたち、帰還した今でも、ふたばいんふぉの活動をとにかく継続していくこと、繋がりを作っていくことが大事だと考え、今も動かれている。
■ 楢葉町
生まれ育った福島。何が出来るかわからなかったけど、ここにいることで何か福島に出来ることがあるかもしれない、だから戻りました。
福島出身でUターンで戻った宇佐見さんはこう話す。
彼女は今、楢葉町のシェアハウスに住んでいる。
このシェアハウスにもいろんな方が携わっていて、楢葉にゆかりがない方も居たりした。
菜園部が生まれて、楢葉の地域で育てた野菜を直売したり、ご飯にしてみたりとこのシェアハウスから少しずつ楽しい動きが生まれてきている。
何ができるかわからない中でも、自分で1歩1歩進めていきながら形にしていく彼女は素敵だった。
■ 大熊町_大熊インキュベーションセンター
大熊町にある施設。大熊町から羽ばたいてく企業や研究・開発の卵を支援・育成する施設で、コワーキングスペースとしての機能も持ちながら入居企業や町民の方との交流の場になっている。
もともとは旧大野小学校で被災と共に避難指示地域となり、2022年6月30日に避難指示が解除。
今年の7月に小学校から生まれ変わり開設された。
コワーキングスペース部分は、もともと図書室があった場所。
地震によって本が散在して放置されていた状態。10年の時が経過して、日焼け後になって残っている。
ここの施設で働く谷田川さんは東京出身。移住した決め手は何か聞くと、こう返ってきた。
「こんなワクワクする場所あります?だから私は移住を決めたんですよね。迷いは一切無かったです。」
この街は津波によって何もかも無くなり、そして原発被害で10年以上の時が止まっている。
震災前に住んでいた人も避難先で関係性が生まれていることで戻らない選択をする方もいれば、この大熊町に惹かれて移住を決める人たちが多くいる状態。
既得権益で身動きとれない状態ではなく、いろんな垣根を越えてみんなで力を合わせて0から街を作っていくフェーズ。
だから震災前の街に戻すのではなく、これから新しい街を作っていく状態だ。ここに魅力を感じていた。
ADDressは全国に250以上の拠点数がある。
京都や軽井沢、尾道に那須など有名な観光地にも拠点があるが、用宗(静岡県)・小林(宮崎県)・多良木(熊本券)など、ADDressを利用することで初めて知る場所も数多くある。
そしてこのサービスの性質上、各拠点には家守がいて地域とつながりやすい。
例えば普段の観光や旅行と考えた場合、被災地の印象が強いことで楽しめるのか不安になるだろう。
あるいは、企業研修先で訪れるかもしれないが、決められたルートに沿って資料館をみたり被災された方の話を一方通行で聞く流れだろう。
そうすると、受け身の経験となってしまう。
「ここに拠点があるから」
金銭面で滞在日数をあまり気にせず長く居れる事で、地域を訪れた際に、余白がある状態で自ら街を観ることができ地域と交わることが出来る。
実際にその地域で仕事をしてみたり、地元の人が好んで行く飲食店で一緒にご飯を食べたり、なんなら自炊したり。
実際に目でみたり、地域の方々と直接会話することで、本当の地域の姿が見えてくる。
単にニュースなどで間接的に触れるのでは全く捉え方が異なる。
この街はまさに生きている。
捉え方は大事だ。何もかも無くなってしまったからこそ、しがらみや既得権益がなく、なんでも出来る。
まちづくりでは、ソフト面を重視することが今の時代ではセオリーとなっているけどここは違う。
何もないから建物などハード面を作りながら並行してソフト面も作っていく。
震災から10年が経過し、やっと戻れる状態となった地域であり、すでに避難した人も、避難先で関係性が出来ていて戻らない選択をする人も多い。
人口も20人や30人が住み始めたフェーズ。震災前と変わらない人口に戻ったところもあるが、半分が移住者のような街。
「何かに貢献したい」「やり切りたい」
強い想いを持った人達が移住したり戻ってきて街が作られていく。
半年1年で街の様子が驚くほど変わる。
こんなフェーズの街、
今の日本ではここしかないのでは?
そう思ってしまう。
今、もし塩尻に移住していなかったら、僕は迷わず福島に移住していたと思う。
なんなら塩尻に移住しているが、福島で何かできないか、そう模索している自分がいるくらい。
この地域を訪れると、おそらく人によって捉え方が大きく異なる。
どんな捉え方も正解であり、もしかしたらモヤモヤだけが残るかもしれない。
ただ心が動く事実だけは、多くの人に共通するように思った。
そしてアクションの差はあれど、あとは思ったことに沿って動いていくだけで良い。
だからこそ、この「来て」という2文字が全てを表していると、僕はこのホッピングで強く感じた。
【お知らせ】
アドレスホッパーとして1000日以上、多拠点生活を送っていましたが、2022年10月より、長野県塩尻市に拠点を持ちました。月の半分を塩尻市で過ごし、残り半分をホッピングする生活を送っています。
なぜ家無しアドレスホッパーが塩尻市を選択したのか。そしてどういった葛藤があり決断を下したのか。書籍化しましたので、よかったらご覧ください。