サカナクション【アダプト】プロジェクトに感じたこと
サカナクションがコロナ禍にいかに適応してきたかを表現する【アダプト】プロジェクトは、2021年11月のオンラインライブ、2021年12月から2022年1月にかけて行われたリアルツアーの後、2022年3月のアルバムリリースをもって、次章の【アプライ】へ移行します。
このnoteでは2022年2月現在、リアルツアーが終了した段階で私が感じたことをまとめました。
タイトル画像 サカナクションオフィシャルウェブサイトより引用
https://sakanaction.jp/feature/project_adapt
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〇アダプトタワーについて
まずはじめに、【アダプト】プロジェクトの象徴とも呼べる舞台装置のアダプトタワーには、どのような意味が込められているのでしょうか。
・タロットカードの「タワー」
・音楽業界と、業界が抱えていたある種の慢心
サカナクションのフロントマンである山口一郎さんが繰り返し語っていた、「フェスブームなどチケット販売が好調だったことで、ライブの開催が難しくなった場合の代替案が講じられなかったこと、ライブとリリース以外にミュージシャンが表現する場がほぼなかったこと」など
音楽業界が潜在的に抱えていた課題が、このコロナ禍で浮き彫りになりました。
それは早くから「NF」で音楽以外のカルチャーとの交流を始めていたサカナクションにとっても例外ではなかったといえます。
タロットとしての「タワー」は既存の音楽シーンが作り上げてきたビジネスモデルの破綻を告げていたのかもしれません。
メンバーの写真が上下反転に配置されたビジュアルも、タロットの正位置と逆位置の関係を連想させます。
・灯台としての役割
タワー最上部のライトが回転する様子は、灯台のフレネルレンズによる光を思わせます。
それは遥か昔から船を導いた明かりのように、不確かな未来へ舵を切ることを余儀なくされた私たちにとって、かけがえのない支えとなりました。
また、その光景はリレーのように、光ONLINEから【アダプト】プロジェクトへのバトンを繋いでいるようにも映りました。
・社会構造のメタファー
未知の感染症の世界的な流行という、人類共通の課題を与えられてなお、鮮明になったのは、手を取り合って協力する人々の姿より、社会の分断であったように感じました。
先進国と途上国、ワクチンの接種順等に起因する年代間のもの、社会階層によるもの…様々な差異が人々を隔てており、複数のフロアに分けられたアダプトタワーにも、そんな断絶の気配を感じました。
だからこそ、私たちは糸のように頼りない個々の繋がりを大切にし、そこにひとつの救いを見出したのかもしれません。
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〇ステージ衣装について
2019年8月にあいちトリエンナーレで行われた「暗闇-KURAYAMI-」に始まり「光TOUR」、「光ONLINE」、2021年1月に幕張メッセで開催予定だった「KURAYAMI」を経て迎えた【アダプト】プロジェクト。
光をテーマとした公演では、スクリーンのように照明を映す、白一色の衣装が印象的でした。
また、白色の光は、光の三原色という赤・緑・青を混ぜ合わせることで生み出されています。
対して今回の【アダプト】プロジェクトの衣装は、グレーから黒のグラデーションで構成されています。光の三原色が混ざり合うことで白色になるのに比べ、色の三原色であるシアン・マゼンタ・イエローを混ぜ合わせていくと徐々に暗い色となり、黒へと近づいていきます。
白と黒、光と闇の二元論に対するセルフアンサーとして、曖昧さや多様性への許容を示す、グレーから黒へのグラデーションを採用したのではないでしょうか。
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〇セットリストについて
1.multiple exposure
オンラインではくぐもった呼吸音が、マスクを外せないという息苦しさを感じさせ、電話ボックスのようなスペースで歌う姿が隔離された人々のようにも見えます。そしてスモークが、飛沫と先の見通せない未来を思わせました。
ツアーでは海鳴りを思わせるSEが会場を包み、灯台のようなアダプトタワーのライトに導かれるように、客席背後からステージに向けて徐々に近づく青いライト。
迷いながらも、間違いながらも、遠くに見えるかすかな光を頼りに、この日にたどり着いたチームサカナクションと私たちを象徴するような演出で幕を開けました。
曲名の意味する「多重露光」とは、写真撮影における技術の一つで、1コマの中に複数の画像を写し込むことです。本来はある一瞬を切り取るはずの写真に、複数の主題や時間軸を置くことが可能になる手法でもあります。
「花火」の創造的な煌めきと、すべてを奪う「原爆」の閃光という、同じ夏の光でも相反するふたつをモチーフとしたこの曲は、【アダプト】のコンセプトのひとつである「破壊」と「再生」に通じるものがあり、オープニングを飾ったのは、ある種の必然だったのではないでしょうか。
【アダプト】ONLINEで行っていた、曲のラストに山口さんがタワーから飛び降りる演出は、タロットの「タワー」に描かれたものであり、社会不安による自死の比喩、通過儀礼の儀式のように映りました。
冒頭で階段を上がっていく姿は、これまでサカナクションが一歩ずつシーンを上っていった比喩であり、そこから身を投げる覚悟で、新たな表現方法をつかみ取りに行った決意の表れでもあるのかもしれません。
2.キャラバン
サカナクションがあえて砂漠を行く「キャラバン」を題材としたのは、カロリーメイトのCMの「ナイロンの糸」で描かれた山口さんの楽曲制作時の心象風景と、パウロ・コエーリョ「アルケミスト 夢を旅した少年」の影響によるものと思われます。
そしてSAKANAQUARIUMという、バンド名とアクアリウム(水槽・水族館)を掛け合わせたタイトルでライブを行ってきたサカナクションが、泳ぐ場所を奪われたことによって生じた渇きも含まれていたのかもしれません。
スモークが充満した電話ボックスのような空間に閉じ込められた、キャストの川床明日香さんが見せた戸惑いや焦りは、他者との接触を控えることを強いられ、先の見えない毎日を過ごす私たちの姿と重なりました。
未知の病に関する報道が日夜繰り返され、感染症が広がっていく状況と、増えていく数字に感覚が麻痺していく社会。
徐々に非日常と日常が置き換わっていく不安に襲われながらも、歩みを止めず夢の里を目指したチームサカナクションと、そこに連れ立とうとする我々の姿を「キャラバン」というタイトルに例えたのでしょうか。
3.なんてったって春
春の麗らかなイメージとは裏腹に、サウンドと照明の両面から、不穏さを感じるこの曲は、訪れた新たな季節が、私たちの知る春とはかけ離れたものになってしまった情景そのもののようでした。
この曲の後半の展開を評して「青春の壊れた感じ」と山口さんがコメントしていましたが、コロナ禍において本来経験できるはずだった、さまざまなイベントを奪われてしまった若者たち。
そんな不条理を飲み込むことが大人だとは、決して言いたくはありませんが、そんな風に自らに言い聞かせなければ、到底消化しきれないやり切れなさがそこにはあったはずです。
不定形のオイルアートが画面を塗りつぶす描写が、蝕まれた日常の印象をより強くしています。
4.スローモーション
春の曲から、冬の曲である『スローモーション』へ移ったのは、『キャラバン』の歌詞「春夏秋冬(ひととせ)は呆気ない」を受け、瞬く間に過ぎてしまう季節を表現するための構成だったのでしょうか。
それだけではなく、コロナ禍によりライブ活動の停止を余儀なくされた2年近くの空白とも一致しているのは偶然ではないと感じました。
限られた未来が擦り減ってしまう焦り、思い描いていたものとはまるで違った未来、そのもどかしさはやがて雪のようにすべてを覆いつくしてしまうでしょう。
タイトルの「スローモーション」が表したのは、そんな風に舞い落ちる雪のスピードだけではなく、孤独や淋しさ放り出したつもりが、放り出した(throw)フリ(motion)をすることしかできなかったというダブルミーニングになっていたのかもしれません。
5.『バッハの旋律を夜に聴いたせいです。』
変わってしまった夜に、変わらない姿で浮かぶ月。持て余した夜の長さに普段は聴かないクラシックに手を伸ばしてみる。そんな情景をイメージしました。川床さんがアダプトタワーの別フロアから、画面越しに見るメインステージは、ライブをオンラインで視聴していた私たちの姿とも重なりました。
映し出された映像の乱れは光ONLINEでの「ワンダーランド」や【アダプト】のビジュアルやプラトーのジャケットを連想させます。
決して忘れないと思ったはずの出来事が、徐々にノイズが混じったように、おぼろげになってしまったとしても、音楽をはじめ、風景や季節、においや感触と結びつき、ふとしたきっかけで蘇った記憶は、時を越えたかのような鮮やかさで現れることがあります。
6.月の椀
「混ざりあってひとつの色になる」
このフレーズは夜に浮かぶ「月の椀」の中で、同じ時間を過ごし、意見や言葉を交わしながら夜を乗りこなそうとしていた私たちの姿を表すものでしょうか。
そして半月状の月がお椀型になるのは、上弦・下弦のどちらでも夜の一番深い時間帯でもあります。
山口さんの歩く姿に重ねられた映像がモノクロの風景だったのは夜の色としての表現であり、徐々に色彩が薄れつつある過去のものだったからかもしれません。ヤリスクロスのCMでもモノトーンの映像を多用していたことから、制作当初から一貫した世界観が垣間見えます。
7.ティーンエイジ
恐らくコロナ禍で最もその影響を受けたティーンエイジャーたち。
スクールオブロックで生徒たちの生の声を聴き続けたサカナクションだからこそ、このステージで彼らの戸惑いや怒り、焦りと恐怖、悲しみ、それらをこのステージで代弁できたのではないでしょうか。
冒頭から頭の中に渦巻くもやを表すような照明がステージを走り、アダプトタワーの外周を、社会不安を象徴するような赤い照明が満たすと、ダムが決壊したかのように感情が溢れ出しました。目まぐるしく変わる表情と、サンプリングされた叫びや笑い、泣き声により表されたそれは、空っぽになるまで止まることはありませんでした。
8.(ONLINE)雑踏
「ティーンエイジ」で感情を流し尽くした反動か、達観と諦観が入り混じってしまったかのような静けさでこの曲は進行していきました。
思えば無観客でのオンラインライブは、恐らくもっとも「雑踏」とはかけ離れたシチュエーションだったのではないでしょうか。
どんなに人が溢れている場所であっても、大切な誰かと歩くその空間を、「雑踏」と呼ぶことはないでしょう。そんな賑やかな街並みが奪われ、雑踏と成り果ててしまった悲しみを感じました。
そしてモニターを覆うブロックは、不要不急という言葉で、人類がこれまで積み重ねてきた文化に蓋をする行為であり、やがてそれは生きるための暮らしと、活力となる文化を分断する「壁」へと姿を変えていくのかもしれません。
8.(Tour)壁
そんな「雑踏」に対して、観客の目前での「壁」は物理的な距離が近づいた分、心理的な孤独を、内面にそびえ立つ壁が強く印象付けています。そして「雑踏」と同じ孤独をテーマとしていながらも、どこか対極的な印象を与えています。
コロナ禍では他者と切り離された時間が増えた分、自分自身と向き合う機会も多くなったと感じたのは私だけでしょうか。
「自分の経験は自分だけのもので、他人にはそのすべてを理解することはできない」という考えを実存的孤独と呼び、それを強く感じる人ほど、死を連想することが多いとも言われているそうです。
私たちは、言うまでもなくそれぞれが違う人生を歩み、性格や価値観も異なるただ一人だけの存在です。とはいえ初恋や失恋など、重ねてきた経験を広い意味でカテゴライズすることも出来ます。
このことから孤独と共感という一見矛盾する感覚は、片方しか持ち得ない訳ではなく、その時どちらを強く感じているかが、そのまま心の動きに繋がっていると言えます。
肉体的な死だけではなく、忘れ去られることによる擬似的な死。それらに立ち向かう事すら難しい状況の中、これまで手にしたものを投げだすことから建て直し始めた「壁」は、寄る辺ない夜に投げ出された私たちにとっても、いつしか確かな拠り所にもなっていました。
9.目が明く藍色
オンラインでは1曲目「multiple exposure」のラストで身を投げる演出がありましたが、ツアーでは自死をテーマにした「壁」を、再生の曲である「目が明く藍色」の直前に配置していました。
それはどちらも直接的な自死の比喩だけではなく、それまでの自分たちと区切りをつけることで、再生を果たしていきたいという決意の曲に繋げるための選択だったのかもしれません。
思えばオープニングからこの曲のラストまで、キャストの川床さんはサカナクションと同じフロアに立つことはありませんでした。
近くにいても遠くなってしまった距離。何より人に触れることがはばかられる時代に、誰かの手を取るということの意味と決意。
ふたりが手を握ったシーンを見ながら、山口さんは夢の中で「目が明く藍色」という言葉を伝えた女性の手を取ることが出来たのだろうか、そんなことを考えてしまいました。
「multiple exposure」の意味する「多重露光」、目が明く藍色に登場する「ずれて重なる光」といったキーワード。
レンズを通過した光を双方から覗くように。順光が照らしだすディテールと逆光が浮き彫りにするシルエットの対比のように、のちに振り返った際に、この時代はどのように映るのでしょうか。
10.documentaRy
前半のブロックは社会の変容と、それに翻弄されつつも適応しようと必死にもがく人々を描いたドキュメンタリーそのもののように映りました。
アルバム版と違い冒頭とラストに「ドキュメンタリー」の声が入ってなかったのは、 それ自体も自由に声が出せない状況に適応した、ひとつのドキュメントのように映りました。
そして曲中に差し込まれたJINS MEMEのCMで使われていたフレーズは
「いつでも繋がれる社会、どこでも娯楽を楽しめる世界、オンラインとオフラインが曖昧な時代に、音楽は何ができるだろうか?」
そんな彼ら自身への問いかけでもあったのかもしれません。