『桐島部活やめるってよ』ー多様化する社会を描くことに成功した映画ー
『桐島部活やめるってよ』は地方都市の高校を舞台に神木隆之介の映画研究グループ(非モテ)、帰宅部(リア充)、ギャル(リア充)、恋に恋をする部活少女、という多様な視点で部活も勉強もできてクラス一番の美人を彼女に持つ桐島が部活を辞めるという現象に対しての各グループの視点を描いた青春群像だ。
物語構造はチュンソフトのゲーム作品である『街ー運命の交差点ー』、『428〜封鎖された渋谷で〜』やギャルゲー、エロゲーなどの物語を各人物の視点から描いたゲーム的な構造を持っており東浩紀の提唱するゲーム的リアイズム となっている。
この作品では桐島は一切登場しない。あるのは桐島が突然部活を辞めてしまったという事実が物語を駆動させる装置として働いているだけであり桐島そのものは重要ではない。マクガフィンというヒッチコックが使う手法でありマクガフィンは映画の中心に位置して、映画のストーリーと登場人物の行動を全て強烈にコントロールする支配力があるが、その正体を知ることは、映画の実質には全く関係ないという概念だ。桐島はそのマクガフィンにあたる。
『桐島部活やめるってよ』という映画の中で重要なのはゲーム的リアイズムで多様な視点で一つの現象を描くことで一つの現実ではなく、受け取る立場によって現象の認識の違いを描くことで現実を重層化し、多様な価値観があることを表象させている。
またこの作品では劇中一切BGMが使われていない。音楽が流れるのはエンドロールで高橋優の『陽はまた昇る』がかかるだけだ。
この手法は森田芳光 監督、松田優作主演で1983年に公開された『家族ゲーム』でも使われている。(『家族ゲーム』ではエンドロールでも音楽は流れないが)ここで何故、『家族ゲーム』を例に出しかというとこの作品も青春を描いており物語の中心は地方都市の高校受験を控えた中学3年生が松田優作演じる大学6年生を家庭教師としてやってき家族に入り込み受験を成功させるというだけの物語で特にドラマチックなことは起こらない。『家族ゲーム』は80年代という冷戦末期や政治的な大きな物語が機能し、いい学校に行けば、いい会社に就職できるという価値観が息づいていた時代の物語であり、多様性やグローバル化した今とは対照的な社会的背景をもった作品だ。『家族ゲーム』では受験の成功という一つ価値観が真であり正しさだった。それは当時の社会を投影している。
ここから今を描いた『桐島部活やめるってよ』に戻ろう。『家族ゲーム』的な価値観は一つの価値観が真であった。しかし、大きな物語は消失し、その代わりに現れた多様化した生き方、グローバル化が進みあらゆる価値観が生まれ消費されていき、ネットによって可視化され容易に共有出来る時代になった宇野常寛のいう各個人が小さな父となったリトルピープルの時代となっている。
そんな時代に求められる、または映し出す物語となっているのが『桐島部活やめるってよ』だ。学校という閉鎖された場所で各グループが独立した干渉しない島宇宙化した教室で他のグループは存在しないものとなっている。それは裏返せば一つのグループの価値観が溢れた場所となるがそれらは決して交わり合うことはない。ここで捻れが生じる。実際の社会は多様化しているが、自分の以外の価値観は受け入れられない学校という閉鎖された呪いにかかっている。
それを打ち破るのが桐島が部活を辞めたことでゆらぎ出す。桐島が部活を辞めたという現象に積極に関わる帰宅部、ギャルのリア充グループ、一切関知しない映画研究グループ、部活少女の非モテグループが一つのきっかけとしてぶつかり合う(ここは映画館で是非、観て欲しいこのシーンが映画的ダイナイズムとなっている)
『桐島部活やめるってよ』は先程も述べたようにグローバル化し多様な価値観が溢れる現代において一つの現象に対して多様な価値観によって解釈されるという事実を描いており、教室の中の島宇宙したグループの価値観が絶対ではないことを教えてくれる。そして他者の価値観と視点を導入し、知ることとで私達の現実は重層化され、一つの価値観に縛られない思考の自由な翼を手に入れられる。
それは冷戦の終結、バブル崩壊、経済的不況、阪神・淡路大震災、オウムの地下鉄サリンテロ攻撃、9.11、ネットの拡大、リーマンショックを経た中で社会が多様化し、複雑化し個人の価値観が多様化して東日本大震災以降の「終わりなき非日常」を生きる私たちの「今」という時代を学校という場所、揺らぐ青春を使って描くことに成功した作品と言えるだろう。