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掌編【彼方の紐切り】

住宅街ですれ違ったおじいさんの手首から伸びる紐には犬がつながれていた。犬は小さく、毛がまるまって全体的にふわふわとしていた。昼過ぎのことだった。

私はすれ違ったおじいさんを横目に犬を見た。犬は、私が近づく随分と前から吠えていた。すれ違った私は当然、おじいさんと反対方向に足を進めていた。私が振り返ると、犬と目があった。犬は私にかけより、座ったまま動かなかった。しっぽだけが揺れていた。

いつの間にかおじいさんは随分遠くへ行ってしまった。犬は、私の足元でまだ吠えていた。私は少し歩いた。犬はついてきた。

「お前は帰らないのか」
私は犬に聞いた。
犬は「わん!」としか言わなかった。

本当にそう言っているのか分からないが、私にはそう聞こえた。おじいさんの姿はいつの間にか見当たらなくなっていた。犬を連れて紐をたどってみたけれど、やはりどこにもいない。

私はやむを得ず、その場で犬と遊ぶことにした。放っておくにしてはその犬は愛らし過ぎた。私は、フリスビーを持ってはいなかった。球やタオルなども手にしていなかった。仕方なく、犬の前を走ってみた。追いかけてくれれば遊びになる算段だった。犬は、走り出した私を屈んだまま見つめていた。私は近づくなり「走らんの?」と聞いた。犬は私の目をまっすぐ見つめていた。しっぽは地面に横たわっていた。「分かった分かった」と口にする私は、犬の気持ちをまだひとつも分かっていなかった。

とりあえず近くの公園まで移動した。途中、呉服屋の店先で売っていたお手玉のような球を買った。公園の中心で、犬によく見せてから球を放り投げた。犬は、初めて元気よく走り出し、球を探しに向かった。口に球をくわえ、犬は朗らかに戻ってきた。その間、犬の首にはずっと紐がつながれていた。おじいさんが近くにいるのかと、私は頻繁に首を回した。やはり、どこにもその姿なかった。

犬は私より落ち着いていた。球遊びこそするものの、犬は飼い主を探す素振りを見せなかった。私は段々と、どこかにいるおじいさんより、目の前の犬より、ふたつの生き物を繋ぐこの紐に興味がそそられていた。

この紐がただの紐でないことは分かりきっていた。柔軟性や耐久性の話ではない。どこまでも伸びては建物の角を曲がるこれは、もはや紐と呼べるのかすら怪しかった。私は紐に触れた。確かに手にのせたのに、紐には感触がなかった。私はたまらず目の前の犬に触れた。柔らかい毛。
犬は首をかしげ、再び「わん」と吠えた。

私は犬を飼うことにした。自宅で放し飼いにした。犬は行儀よく、しつけたことはきちんと守ってくれた。私の虫の居所が悪いときはひとりで遊び、私がひとりを寂しいと感じる夜には隣に寄り添ってくれた。たった数ヶ月で私は、犬をパートナーとして慕っていた。それでも名前をつけなかったのは、犬の首から未だに紐が見えるからだった。

「その紐、邪魔じゃないか?」
犬は私の問いに答えず、口にくわえた球をキッチンへ放った。リビングにいた私は笑うしかなかった。
「お前、俺にとって来いってか?」
仕方なく重い腰をあげキッチンへ向かう。後ろで物音がした。振り返ると犬の姿が消えていた。リビングにトイレ、玄関まで探したが犬はいない。

紐がこの世に存在しないものだと感じたときから、いつかこうなるだろうと薄々気づいていた。犬も本当はいないのだ。唐突な別れに、私は予期していた自身を意識して哀しさを和らげた。窓がガラッと開いて、犬が部屋へと入ってきた。そういえば換気にために窓、開けてたっけ。頭を撫でると 、犬は吠えずに首を勢いよく振って満足そうに寝転んだ。

私はハサミを開き、犬から伸びた紐を刃先にあてた。紐がどうしようもなく目障りだった。どうせ感触がないのなら。刃先でわずかに軋む音が鳴った。手にもたしかな抵抗が伝わった。犬が飛び起きて、目を見開いて私を見ていた。信じられないと、彼は言っていた。

私は犬を手放すことに決めた。捨てる選択はなかった。チラシを配り、新しい飼い主を探した。引き取り手が見つかるまでの期間を、精一杯、犬と生活することにした。

ほどなくして新しい飼い主はあっさり見つかった。小さい男の子が居る新婚夫婦の家庭だった。一度あいさつがてら、私は夫婦の家を訪れた。三階建ての持ち家。その庭先で走る男の子を追いかける犬。私は、彼らに犬を引き取ってもらう話をすぐに進めた。引渡しの前日、私は夫婦に言った。

「前の飼い主が紐をつけっぱなしだったんですよ」

夫婦が顔を見合わせた。

「つけっぱなしって、家でもそうだったんですか?」旦那があっけらかんと言った。

それだけ聞ければ充分だった。

「ちなみにこの子の好きな色ってあったりしますか?散歩の時はリードをつけると思うので」

今度は奥さんがそういった。どちらかといえば、夫婦のなかでも犬を好きなのはこちらに思えた。

「分かりません。私もたまたま飼っていただけに過ぎないので」

うなじをかき、知らないフリをした。私が球を放ったなかでとくに興味を示した色を、私は教えなかった。

彼らの家を出た晩、私は犬と最後の夜を過ごした。私は、大人になってから誰かと一緒に生活したことはなかった。離婚したら、こういう気持ちになるのかもしれない。

バルコニーに出て夜空を見上げた。星はない。たしか今日は、日中曇り空の予報だった。柄にもないことをしたところで格好はつかなかった。窓を開ける音で目が覚めたのか、犬もバルコニーにでてきた。私は犬を抱き寄せた。

「なあ、お前は結局なんだったんだ?」

犬は首を傾げて、一際大きく吠えた。

「わん!」
「わっかんねんだよなあ」

私が思わず笑うと、犬も私を見て舌を出した。しっぽを振っていた。翌日の朝早く、私は夫婦の家に犬を送り届けた。

「あれ?」
犬の首に紐が見当たらない。
「どうかしましたか?」
「あ、いえ」

だからどうした。仮にそうであっても、私にはもう関係のないことだった。

名残惜しい私はしばらくその場から動けなかったが、男の子と犬が庭先へ駆けだせば私がいる理由はなくなった。夫婦に会釈と挨拶をして、私は家を離れた。

自宅へ戻り、バルコニーで吸ったこともないタバコを吸った。ライターもコンビニで買った。ペンキで塗りつぶしたような青色だった。犬の、好きな色だった。私は吸い込んだ煙に思いきりむせた。タバコの先がオレンジに光り、灰が地面に落ちた。私はそれつまんだ指先を少し擦った。爪が、薄く汚れた。手が汚れるなんて、公園で犬と遊んだとき以来だった。

「わん!」と遠くで聞こえた気がした。いまに紐がつながっているのは、きっと私だと思った。