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短編小説【あたかもダイナミック非日常】

 屋上は高いからと階段の踊り場を飛び降りた私の優雅な着地姿を見た担任の山梨恭子が亡くなったのは土曜日のことだった。
 足の裏に広がる痺れを抑え、膝を手でこする私に微笑みかけた山梨は、私の父と不倫をしていた。私はそれを前から知っていて、山梨も私が知っていることを知っていた。お互いに知ったのは、不倫の最中に私が帰宅したからだった。

 その日、授業が面倒になり早退した私が家の玄関を開けると、知らない赤のハイヒールが一足置かれていた。音をたてぬようゆっくりと戸を閉めて、忍び足でリビングへと歩く。リビングは玄関から伸びる廊下のつきあたりにある。いつもは閉めないすりガラスの戸が見えた。戸を開けると、父と山梨がソファでお楽しみの最中だった。
「なにしてるの?」
と私は聞いた。答えは最初から知っていた。
「随分早い帰りだね」
 数分が経ち、父はソファの上に積まれたシャツの山を崩しながら言った。スーツは床に広がっている。山梨はそれらの衣類を掴んではたたみ、苦笑いをしていた。父が喋るまでの数分間を、私は部屋の壁時計と交互に見比べながら鑑賞していた。秒針が進み、洗面所で動く洗濯機の音に、二人の歩く音。日常に訪れた違和感の音はなかなか耳から離れなかった。
 私は冷蔵庫から取りだしたお茶をコップになみなみと注いで飲み干した。隣に、山梨が立った。山梨はインナーの上から水色のシャツを羽織り、上から三つ目のボタンだけ外していた。なんだそれ、と思った。彼女は慣れた手つきで棚からコップをふたつ取りだし、お茶を注いで当たり前のようにテーブルへと運んだ。父が彼女へお礼を伝える声を背に、私は自分の部屋へと向かった。
 部屋に入ってすぐ、机に広げた日記帳に絵を描いた。罫線まみれになってじゃれあう二匹のクマは歪んだ表情をしていた。そもそもクマと伝わるかすら怪しかった。絵は得意な方ではなかった。私は日記帳をペラペラと捲った。半分ほどが白紙で、もう半分には絵が描かれていた。その時々の思いつきで描いた絵に統一性はなかった。専門家なら規則性を見出すかもしれないな、と考えて、顔のない専門家に腹がたった。私の自由からなにかを読み取ろうとするなんて、許せなかった。
 強いて言えば、絵はすべて動物だった。いま描いたクマのほかに、罫線を檻に見立てて描いたパンダやライオンがいた。彼らはおそらく飼育されていた。猫の絵もあった。きっと飼われていない、もしくは飼われていたのに家から放たれたであろう気性の荒そうな野良猫である気がした。そうでなければいけない気がした。日記帳には文字が書かれていなかった。描かれていた絵の生き物は、どれも二匹だった。
 帰宅したのは昼過ぎだったが、気づくと夕方になっていた。私は夕方が大嫌いだった。制服のブラウスとスカートを着たままベットで仰向けになり、顔を左右に向けた。右は壁、左は部屋のなかだった。隅に置いた本棚の側で、ブレザーがハンガーに掛けられていた。夏のあいだは用済みだ。次に天井を見つめてから目を閉じた。そのまま眠るまで、私は山梨を思い浮かべていた。今朝、体育教師が教室に入ってきて開口一番に私たちを一喝し、自分は山梨先生の代わりに来た、と言った。その彼女はいま、下のリビングで寛いでいる。
 私は、山梨の度胸に少しばかり笑った。そして眠った。

 後日、私は再び早退し、再びリビングで彼らに会った。父と山梨はまたもソファでお楽しみの最中だった。彼らはそれぞれコードの伸びたコントローラーを扱い、時に体を左右に揺らしては声を上げていた。
「朱音も混ざるかい?」
 リビングに一歩だけ足を踏み入れたままの私だったが、楽しそうではあったから、二つ返事で父の提案を承諾し、ソファに腰を下ろした。道具は私の分もあった。両手で持つとそれはなかなか手に馴染む。伸びたコードの先はテレビ下の四角いゲーム機器に繋がれていた。テレビの画面で、カートに乗ったキャラクターが道を走り抜けていた。
「どれが強いの」「それは自分で試すしかないさ」
「私、これがいい」「朱音は善い目をもってるよ」
 目線を合わさない親子のやり取りに、山梨の笑い声が聞こえた。悪い気分ではなかった。私が手にしているコントローラーが、昔に家族でゲームをしていたとき母が愛用していたピンク色のものでなければもっと楽しかったかもしれない。
 途中、私と山梨の一位争いになった。一位だった彼女は何故かカートを止め、私が追い抜いたところに甲羅を投げてきた。山梨は美人だ。そして性悪だった。彼女は一位を獲るために、走行中の画面で一時停止を多用した。一段落してから、彼女は自身の愚行について反省をしていた。そのあいだ、強そうな雰囲気を醸し出していた父とコンピューターとの下位争いは激しさを増していた。二十回ほどのレースを終えて、山梨は帰る準備を始めた。未だレース中だった父を残し、私が見送りをした。玄関を出ると外は薄暗く、風がぬるかった。山梨が、中腰で顔を近づけてきた。
「朱音ちゃん、今日のこと学校で言わないでね」
 唇に人差し指をあてる山梨の姿はバカバカしいほど狙っているようで、私は拍手しそうになった。いたずらめいた表情には愛らしさすら感じた。
「じゃあこないだのことは言ってもいいですか?」
「こないだのこと?」
「不倫してたこと」
「ダメに決まってるじゃない」
 その顔が少し引きつったのが愉快だったが、それは一枚上手になれたからではなかった。そうではないことを、私はこの頃もう理解していた。
私は、山梨と友達のように気さくな会話をする時間を、楽しいと感じ始めていたのだった。

 朝、教室の前で神経が鋭くなるのが分かる。戸が閉まっていようが開けられていようが関係ない。私が足を踏み入れると、室内の空気は質を変えた。
どれも、いつものことだ。

 小、中学校までは友達がいた。高校に入った途端、私は一人になった。自ら一人になった、と言った方が近いかもしれない。
 両親の別居が決まった時、私はちょうど高校受験の真っただ中だった。母が出ていく形になりそうだったので、私は父と一緒に家に残った。その頃、母は目に見えて疲労していた。一人の方が気楽だろうと考えたうえでの結論だった。母も納得していた。
 しかしこの選択が間違っていた。私が家に残ったのは、友人たちと離れたくないという気持ちもあってのことだった。偶然にも友人たちとは学力が似ていたから、同じ高校への受験が決まっていた。しかし合格してクラスが離れると、次第に会わなくなった。そして彼女たちは私の家庭の話を別の生徒に話した。どうやら彼女たちに悪気はなかったらしいが、それでも私が父についていったという事実を面白おかしく醜悪な捉え方をして噂を口にした子たちがいた。今思うと、私の対応次第では全員と仲良くなれる結末もあったのかもしれない。しかしその時の私は、友人たちのせいで自分が奇異の視線を向けられ屈辱を味わったことで気持ちが変容していた。
 私はまず、元友人ふたりを呼びだして話を聞いた。ふたりの謝罪は一応聞いたが、どう考えても二人は悪くなかった。私はその足で噂の発信源だった女子生徒を探し、廊下で見かけてすぐ殴った。そいつは殴り返してきたから私はもう一度、鼻をめがけて拳を振り下ろした。廊下で騒ぎとなれば教師がすっ飛んでくる。私とそいつが制服の襟を掴まれて別室に連れていかれた。廊下には赤い液体が点々と落ちていた。
 私とそいつは停学処分になったけど、そいつの方が停学が明けるのは早かった。数日遅れで教室に入った私に、もう居場所はなかった。
 唯一、隣の席の眼鏡をかけたおとなしそうな女子生徒は何度か話しかけてくれた。しかし彼女まで奇異な視線を向けられるのに耐えられなかった私は、結局、一年次が終わるまで彼女を無視し続けた。

 そうして高校の二年目が始まり、出会ったのが山梨恭子だった。

 山梨はこの高校に赴任してからまだ日が浅く、担任を持つのは初めてだから緊張していると挨拶のなかで語った。
 それまでは副担任ばかりでよく叱られていたと話す彼女を、教室の入り口に立つ男性教諭がやんわり注意していた。彼は副担任らしいが、明らかに山梨の教育係だった。その証拠に山梨がミスをする度に男性教諭が注意していた。山梨は落ち込んだ姿を惜しげもなく見せ、クラスの生徒はそんな彼女を励ましていた。
 一連の流れは出来上がった作品のように見事で、私はそんなことを思う自分に苦笑した。自分で自分が輪の外のいるって強調したいみたいで恥ずかしかった。
 学年が変わっても私の疎外感は相変わらずだったが、その多くは避けるだけで、以前のような攻撃的な態度を取られることはなくなっていた。噂の発信源だった生徒は勿論、元友人二人と言葉を交わすこともなかった。
 進級して一度だけ元友人のひとりと廊下ですれ違ったとき、私は迷った。彼女たちは本当に私を心配してくれただけかもしれない。そう考えれば昔のように仲良くまた、という期待は、彼女が私から目を逸らしたことであっけなく壊された。当然と言えば当然だった。彼女たちにとって私は心配したのに急に怒ってきた怖い人にしか映らないだろう。大人しい子たちだった。暴力を振るう人といたくないと思ったかもしれない。どちらもごく自然な態度だった。
 その日、私は珍しく気が弱まっていた。いつもなら避けられてもなんてことないのに、明確に期待が霧散しただけで落ち込んでいた。どれだけで淡くても身勝手でも、期待はエネルギーだったらしい。別に死のうとか、そんなことは考えていなかった。でも、ほんの少し気分をよくしたかった。
 だから、私は階段の踊り場から飛んだ。
 まさか、見事に着地しちゃうとは思ってなかったけど。

「大変だったんだねえ」
 放課後の教室で、山梨はあっさりそう口にした。私の前の席に座り、椅子の背もたれに手を置いて、自分の髪先を指で弄びながら。
「適当に聞かないでよ」
「適当じゃないって。でもこういう真面目な話、私どう聞いたら良いか分からなくって」
「教師に向いてなさすぎじゃない?」
 私がそう言うと、山梨は図星を突かれたように苦笑した。
「否定しなよ」
「いやあ、自覚はあるんだよね」
 山梨は、今日が期限だから今やろう、と宿題の提出を忘れた私を半ば強引に教室へと居残らせ、ぐだっていた。宿題のプリントは教科書を見ながらやれる分進んでいたが、まだもう少しかかりそうだった。身の上話に夢中になるあまり、手が止まっていた時間が長かったせいだ。それでも山梨は咎めることなく私の話を聞いていた。髪の毛を触り始めたのも私が話を終えてからだし、何を言えばいいのか困ったというのは本当なのだろうと思った。それに私は、別に励ましてほしい訳ではなかった。誰かにこれまでの葛藤を言わずにはいられなかったのだ。たまたまそれが山梨だっただけ。
「まあ、これからいいこといっぱいあるよ。私が保証する」
 あまりに無責任な言葉は、私が彼女を教師として見ていたら軽蔑すらしていたかもしれない。しかし私は違う。私はやっぱり彼女を友人のように見ていたから、そんな言葉でも心は潤った。
「最近枝毛多くてさ、良いトリートメント知らない?」
「生徒になに聞いてんの。知らないし」
「駄目じゃん。女子高生なんだからもっと気を遣わないと」
「高校生とか関係ないでしょ、おばさん」
「まだ二十五ですー」
 これはこれで形式化されたやり取りだなってつくづく思う。でも、私が輪のなかにいるから、これは好き。

 駅前のカフェで待ち合わせをしていた。早く着いた私が店内に入ると、二人掛けのテーブル席に案内された。メニュー表を眺めていると、入り口でベルが鳴った。たった今店内に入ってきた母は、私を見るなり顔をほころばせた。
「元気にしてた?」
 私の正面に腰かけた母は、座るなり床のバスケットに荷物を置きながら言った。
「まあ、ぼちぼち」
 私が父と一緒にいると伝えたとき、母はそれほどショックを受けていないように見えた。別に私が母と父を天秤にかけた訳ではなく、友人と離れたくないという理由があったと知っていたからかもしれないが、そうでなくても母はそれほど私という人間には執着がないように思えた。母の執着は、むしろ父にあるような気がしていた。あれほど言い合いをしても離婚せず、頭を冷やすと言い実家に戻っては、毎週私に会いに来るという名目で家に寄る。家に着いてからの二人がなにを話しているかは知らない。でも小一時間してまた家を出る時の母は、名残惜しそうに父を見つめている。じゃあ戻ってこればいいじゃんって思うけど、私も母に執着はないから、あえて口にしない。
「お父さんもどう? 元気?」
「元気だよ」
 母は最近まで体調を崩していて、今回はひと月ぶりの再会になった。流行病の感染だからと実家へのお見舞いも断られていたから、たったのひと月でも妙に懐かしく感じる。
 母と私は、会うことはあっても電話で連絡を取り合うことはなかった。だからまだ山梨の話はしていない。山梨は私の友達みたいなもので、父との浮気は言わない約束だから、少しも気取られないためにも彼女の名前を母に対して口に出すのは避けたかった。
「お父さん今日どうしてる?」
 一番恐れていたのはこれだった。私みたいに、彼らの浮気を母が目撃したら洒落にならない。母が家を出るとき律儀に鍵を置いていったから父は安心しきっているようだけれど、それにしても父は危機感が薄い。
 今日は母が家に寄るであろうことは山梨にも伝えていた。父から伝わっているかとも思ったが、山梨は知らなかったからしく、伝えたとき驚いていた。
「家にいると思うよ。来るでしょ?」
 頷く母に、私も目を合わせて頷く。互いにカップに口をつけ、沈黙がうまれた。まだ母が家にいた時、私は結構喋る方だったと思う。反対に母はあまり話す方ではなかった。母はいつも私や父の他愛もない言葉に耳を傾け、ほほ笑みながら相槌を打ってくれていた。
「学校でお友達と仲良くやってる?」
 私は、間髪入れずに「うん」と返事した。母には元友人たちとのいざこざは一切話していなかった。停学になった時は流石に父から連絡がいくかもしれないと思ったが、母は会った時何も言わなかった。多分、何も知らないのだろう。
 母が会計を済ませているあいだ、私は先にお店を出た。ついこないだまで桜が咲いていた店先の樹木も、今は緑色の葉が実り始めている。季節の移り変わりよりも目まぐるしく変わる私の日常は、もうどれが日常と呼ぶべき時間か分からなかった。少なくとも友人と映画を観に行った中学時代や、家族で水族館へと出かけていたあの時間がもう私にとって日常でないことは分かっていた。
 ベルが鳴り、母もお店を出てきた。
「行こっか」
 カバンに財布をしまいながら母が言う。
「向こうの道から行こうよ。新しいお店が出来てたから」
 私の提案に、母は嬉しそうに「いいわよ」と顔をほころばせた。その顔にも、しわが増えた気がした。たった数年で変わるらしい。
 もしかしたら、ゆっくりと変わっていたあれこれに、私がようやく気付き始めただけかもしれなかった。
 家に帰ると父が玄関の前に立っていた。いつもはリビングに座って待っているのに、どうしたんだろうと思ったら、父は嬉しそうに母を抱きしめた。母も父の背中に両腕を回し、少し泣いていた。
「心配してたよ」
 父のその言葉には、体調を崩していた母への気遣いが含まれていた。家で母に電話をかける父の姿は何度か目にしていた。その電話の度に、父は冷蔵庫から取り出したお茶を一気に飲み干したり、その晩にはお酒を飲んでいた。多量ではなさそうだったし暴れるとかはなかったけど、普段お酒を飲まない人だから意外だった。なにより意外だったのは、それほど母を心配していたのに、山梨と浮気していることだった。
 家に入ると、私は軽く喋ってから二階の自分の部屋へ向かった。階段を上がりながら、そういえば、山梨は父とどこで知り合ったのだろう、と思った。授業参観や家庭訪問などもやっていない。二人が出会う機会なんて、思い当たらない。

 物音で目が覚めた。家着に着替えてすぐ私は寝てしまったらしい。
 体を起こすが、近くで変わった様子はない。なんの音だろう、と思ったらまた音がした。何かが落ちるような音。一階から聞こえた気がする。私はだらだらと階段をおりてリビングへと歩いた。入り口の戸が開いていた。部屋の中で、母と父が血を流して倒れていた。母は頭から血を流しうつぶせに、父は胸に包丁が刺さったまま仰向けだった。彼らは部屋の奥にいた。
 その手前、戸から近い場所に山梨が立っていた。
「あ、いたんだ」
 山梨は私を見た。手から赤い液体が垂れていた。彼女が父を手に駆けたことは間違いなさそうだった。そうであれば母も山梨の仕業だろうと思った。
「どうしてこんなことしたの」
 私は努めて冷静に聞いた。悲鳴を上げて飛び出したかったが、足が動くか不安だった。なにより、背を向けるのが一番怖かった。会話をすれば共犯者のような空気が流れ、あわよくば助かるかもしれないと考えた。そう考えてからは、もう母と父がいない悲しさなど微塵も感じていなかった。
「どうしてって」
 首を傾げる山梨はいつか見たホラー映画のピエロのように、いつ私めがけて飛んでくるか分からない不気味さがあった。
「私の癒しがなくなりそうだったから」
 山梨梨沙は狂っているのだと直感した。たしかに生徒の家で日夜ゲームをしていた時から変な人だとは思っていたが、まさか狂っているとは思っていなかった。
「先生って狂ってたんだね」
 私の言葉に、山梨は不思議そうな顔をした。
「あなただって同級生を殴ったり、お父さんの浮気相手なのに私に懐いてたじゃない」
 咎めるようでもあり、嘲笑しているようでもあった。
 この人は、私が整合のとれない私自身の内面を、自分の狂った内面と同等のものとして判断しているようだった。私には友達が裏切ったとか、親しい人がいなかったからとか、理由があったのに。彼女には、理由がない。
「癒しがなくなるってなに? 浮気がばれただけでしょ? というか今日ここに来なきゃ別にばれることもなかったんじゃないの?」
 どさっ、と崩れるように山梨はソファに座りこんだ。視線はずっと私から外れない。腕を掴まれているような圧迫感があった。
「あなたのお父さんに呼ばれたの。そしたらあなたのお母さんがいて、今まで父を気遣ってくれてありがとうって。私あなたのために家に通ってたことになってた。あなたみたいな生徒、どうでもいいのに」
 決定的な一言が彼女の口からぽろっとこぼれた気がした。逆上して私が怒り出すなら今しかなかった。しかし、やはり私の足はいつも通りに動かずに、立ち止まったままだった。
 山梨が近くにあったライターで、家のそこら中に火をつけ始めた。段々と室内が暖まってきて、コタツにもぐった冬を思い出す頃、リビングの戸という唯一の退路が断たれそうになっていた。またソファに座った山梨は逃げる気が無さそうだった。
 命が危険に晒されているらしいと自覚して、私の足はようやく動いた。急いで戸へ走り、最後に一度だけ振り向いた。山梨は天井を見上げていた。
「ここでお父さんと朱音ちゃんとゲームするの、楽しかったなあ」
 示し合わせたかのように、彼女はそんな言葉を呟いた。肌を刺すようなたしかな熱がなければ、映画を観ているようだった。炎の向こうで、彼女もそう思っているかもしれなかった。

 私は命からがら家を脱出した。なにを考えていたのか、私はリビングを出てすぐ二階へと上がった。目の前の玄関を見ながら足だけがそう決められていたかのように階段を駆け上がっていた。部屋に入るとまず窓を開け、ベッドのシーツやクローゼットの衣類をありったけ手近な大きな袋に詰め込んだ。それを抱え込み、私は地面へと飛び降りた。外には既に人が集まり始めていた。私は腕や足の激痛を堪えながら、どうにか数軒先の隣家の外壁にもたれかかった。アスファルトに擦れて、服はボロボロだった。
「どうしたの」、とおばさんが声をかけてきた。なにこの人、と思いながら私は涙を流して母と父が担任に、と先ほどまでの状況を口にした。何遍も練習したかのように私の声は迫真だった。人だかりのなかで私は担架で運ばれた。家のベッドを思い出した。ベットで寝転がり、今は着ない制服のブレザーを見るのが、私は好きだった。
 救急車に乗っていると、今日が土曜日だと思い出した。

 良かった、学校に行かなくていい。明日は休みだ。
 そんなことでも考えていないと、あまりに初めての日常に、笑ってしまいそうだった。

 二週間が経ち、私の正式な引き取り先が母の実家と決まった。荷物のない私の引っ越しは簡単そうだった。住民票を移すとか、そういうのは大人がやってくれた。
 退院の日、私は制服を着て学校へと向かっていた。大慌てで袋に詰め込んだ衣類のなかに、脱ぎっぱなしにしたシャツと制服の上下が入っていた。袋はあのおばさんが病院まで届けてくれた。新しい高校は通信制で、月に一度の登校日も私服でよかった。私がこうして制服で出歩くことは、もうないと思われた。
 事務室で見学許可証をもらい校舎へと入った。事務員も教師も気味が悪いくらい優しくて、首から提げた許可証を廊下に投げつけたい気分と、静かな校舎を自由に歩ける優越感とが半々だった。今日は土曜日だった。しかもテスト週間で、部活動をしている生徒もいなかった。勉強する生徒向けに図書館は開いているらしいけれど、私は入学してから一度も行ったことがなかった。本を読むより刺激的な経験をもう何度かしていた。昔みたいに友達と喋る帰り道が懐かしかった。もういない母と父と囲んだ夕食が無性に恋しくなった。
 でも、私は覚えていた。あの瞬間、私はふたりの死よりも山梨の狂気よりも、自分がいた状況に呆然としていた。
 それまでの私も似たようなものだった。
 両親が別居して、友人に裏切られて、父が浮気して、相手は担任で、その彼女と親しくなった気でいて、また裏切られて、私はただ呆然としていたに過ぎなかった。
 あらゆる場面での私は、すべて私じゃない誰かが暴れていたに過ぎなかった。
 考えるより先に足が動いた。教室横の階段を駆け上がり振り向いた。まったく同じ高さだった。二、三歩進み、階段の踊り場からまた私は飛び降りた。
 ダンッ!
 力強く踏みつけた床に両足が揃う見事な着地だった。
「朱音ちゃん?」
 声が聞こえた。振り向くと、一人の女子生徒が立っていた。彼女には見覚えがあった。一年生の時に隣の席で、クラスで浮いていた私にしつこく話しかけてくれた人だった。
「今の凄かったね」
 無邪気に笑う彼女に、私もつられて笑った。なにが可笑しいのかなんて分からないけれど、誰かの笑い声と一緒になって、声を上げて楽になりたかった。
「あの、もし良かったら連絡先教えてもらえないかな……?」
 私が遠い町へと引っ越すことを彼女は知っていた。
「どうして?」
 彼女は俯いて顎に手を当てた。思案顔を前にして流れる沈黙に、私は答えを待っていた。
「朱音ちゃんと仲良くしてる自分を想像するのが好きだったから」
「なにそれ」
 この子は、だいぶ変わっていた。でも、その不思議さは嫌いではなかった。
「なんでそんな想像してたの」
「分からない。でも気づいたらそういう想像してることってあるよ。あの人と仲良くなったら、喧嘩したら、こういう時はどうするだろうって、いろいろ想像するよ」
 やっぱり変な子だったが、気持ちは分からなくもなかった。
結局、彼女と連絡先を交換した。喋りながら並んで歩いた。私は許可証を返しに事務室へ、彼女は勉強をしに図書室へ向かった。
 別れ際、私はつい言葉をこぼした。
「最初に着地を見てたのが、あなただったら良かったのに」
 彼女は首を傾げていたが、最後には笑顔で手を振ってくれた。私もそれに返して手を振って、校舎を出た。
 今しがたの言葉をくり返し呟いて、私は想像をした。
 もしもそうであったなら、私の日常は新しい友人を一人増やしただけの、少し変わった日常になったのかもしれなかった。

 私は働き始め、今でも彼女と連絡は取りあっている。年に数回は遠出もする。去年は温泉旅行にも行った。彼女は意外にも運転が好きで、私はその助手席で曲を聴くのが好きだった。
 残業が続いた日には、気晴らしに階段の踊り場から飛び降りたりもした。職場は四階建てのビルで、校舎よりも踊り場からの高さはなかった。
 でも、こないだ初めて着地に失敗して捻挫した。なんとか言い訳はしたけれど、それが原因であの子とのスキー旅行が翌年に持ち越しになってしまった。私は自分でも驚くほど、その過ちを嘆き、謝罪した。

 私は変わった。
 たぶんもう、飛び降りることはない。