ほくろの絶対的優位性について
ほくろが好きだ。どのくらい好きかというと、その人ではなく、その人のほくろしか見ていないときがあるほどだ。よく眼鏡をかけている人が「眼鏡が本体」といわれることがあるが、それと似たようなもので、私からしてみればほくろはその人のアイデンティティそのものなのである。
ほくろは恋の落とし穴であり、愛を吸い寄せるブラックホールであり、神様が彫ってくれた入れ墨であり、とにかく他の身体的特徴に追随を許さないほど魅力に溢れている。それにもかかわらず、漢字にすると「黒子」というなんとも味気ない表記になる。
昔は母の胎内でついたカスと考えられていたことから、ハハクソと呼ばれていた時代すらあるらしい。実に嘆かわしいことだ。一方で英語には「beauty mark」という言葉がある。美の印。なんてマーベラスな表現だろうか。私は日本語特有の雅で趣深い響きや言い回しを好むが、今回に限っては英語の方に軍配が上がる。
ほくろは、言ってしまえばただの黒い点だ。しかしたとえば紙や床や壁にある黒い点に魅力を感じるのかといえばそんなことはない。また、男性のほくろに関しても、私の興味を引くものではない。女性のほくろに限ったことなのである。私の恋愛対象が女性であることからも、つまり私はほくろになんらかの性的な魅力を感じているに違いない。
男は安易におっぱいだおしりだ太ももだと短絡的なシンボルに飛びつきがちだが、本当に魅力的なのはほくろなのだ。
おしりやおっぱいや太ももが好きだという男性心理もわからないことはない。『人間の性はなぜ奇妙に進化したのか』(ジャレド・ダイアモンド著、長谷川寿一・訳、草思社文庫)によれば、「適度な脂肪がある=健康である=子どもを生み育てる能力がある」ということになるらしい。
つまりそれらの部位は大きければ大きいほど、柔らかければ柔らかいほど、健康的で安産体型ということになり、子孫を残しやすいとオスの本能が感じ取る。物質として触れれば気持ちいいということもあるだろう。ほくろにそのような実用的な利点はない。
ほくろを見つけるというのは、真っ白な夜空に漆黒の一番星が輝くような、一面の柔らかな新雪の上に一匹の黒兎が現れたような、そんな幻想的な心の震えを伴うものだ。より高尚で奥深い論理が裏にあるわけである。
私は異性愛者だから女性のほくろに惹かれるが、女性が男性のほくろに惹かれるということもあるだろう。同性愛者であれば同性のほくろに対して心動かされるだろう。そういう意味では。ほくろは性差や人種などあらゆるしがらみから解き放たれた絶対的な美点であるといえよう。
ちなみに私が最も愛してやまないのが頬のほくろだ。芸能人で例を挙げるなら、森絵梨佳、重盛さと美、白石聖、中条あやみ、矢島舞美、渡邉理佐、橋本環奈(ほくろ除去前)、川島海荷、高畑充希、仲里依紗、筧美和子、松島花、秋元梢、ウィンター(aespa)、IU(イ・ジウン)、吉川愛、井頭愛海、久保田紗友、箭内夢菜、永井みひな、戸田真琴、MINAMOなど。
調べてみればわかるが、いかにほくろがその人の顔で強く主張をしているかがわかる。あるのとないのとでは大違いだ。仮に魅力度0を無関心、魅力度100を好き好き大好き超愛してる、だとしよう。私の場合、ほくろがあるだけで少なくとも50は魅力度が跳ね上がる。
たとえばだ。ほくろが落ちていたらどうする? 間違いなく拾うべきだ。そして持ち主に返してあげるべきだ。なんせほくろがあるかどうかだけでその人の印象に多大なる影響を与えてしまうのだから。
残念ながらまだほくろフェチというのはそれほど浸透していないが、これから必ず増えていくはずだ。そのために私がいるのだから。ほくろフェチが増え、ほくろは可愛い、お洒落だ、モテる、ということが広まれば自ずとほくろ女子も増えるだろう(男子も)。そうすれば私も心置きなくほくろライフが送れるというもの。
実際韓国では今、ほくろメイクやあえてほくろを取らずにいることが流行しているらしい。ぜひ日本でも流行って欲しいものだ。そうだ、いっそのこと日の丸を黒くしてみてはどうだろう。白地に黒い点。まるでほくろのようではないか。
昨今の円安。日本企業の衰退。国民の政府に対する不満。それらを打開するにはもうほくろしかないのだ。ほくろ減税とほくろ補助金のおかげでBeauty markerたちが台頭し、インほくろバウンド効果で経済は潤い収支はほ黒字化。いいこと尽くしである。これから日本はほくろ国家として世界を席巻するのだ。
そうと決まれば私は日本中の日の丸を黒で塗り潰して回ろうと思う。無謀に感じる人もいるだろうが、この挑戦を止めないでほしい。私のことは忘れても、ほくろの素晴らしさは忘れないでくれ。それでは。
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