バイ・マイ・サイ
誰と一緒にいたいかというのは、誰の言葉を聴きたいかということだと思う。
言葉を聴くと一言で言っても、そこには様々な要素が関係してくる。相手がなにを言うかということはもちろん、言うタイミングや間、周囲の環境によっても左右されるだろう。
また、発声や発音の仕方によっても印象は変わる。人体という楽器としての声帯の強さ、肺の大きさ、骨格、歯の並び、舌の使い方……ありとあらゆる要素の結晶として、言葉が僕の元へ届く。
彼女が使う言葉には、誰も足を踏み入れていない一面の新雪に、ざっくざっくと足跡を残していくような、そんな軽快さと気持ちよさがあった。
彼女は僕にとっての音楽であり、水であり、温度なのだ。
愛の大きさというのは、発する言葉の振動でわかる。僕は彼女を愛していた。そして彼女もまた、僕を愛していた。
彼女の作る料理は抜群に美味しい。毎週末には彼女の家にお邪魔して手料理を振舞ってもらっていた。
今日は、何時間も煮込んだビーフストロガノフとオーガニックサラダ、自家製のパンをいただいた。どれも絶品で、お店を出せるんじゃないかと本気で思う。
食事が終わり、僕たちはテレビを観ながらゆっくりソファでくつろいでいた。
「あ、そろそろ行かないと」
時計を見て僕は立ち上がる。
「そっか、明日早いんだもんね」
微かに寂しげな表情を見せた彼女だったが、引き留めることはせず、気持ちよく玄関まで送ってくれる。
「休日出勤なんて嫌になっちゃうわね」
「仕方ないよ。でも、きみと会えたからまた頑張れる」
そう言うと彼女は綿のように微笑んだ。彼女とは軽いキスをして別れた。
マンションを出て駅に向かう。そして自宅とは反対方向の電車に乗った。車両は軽やかなリズムとビートで僕を目的地へと運んでいく。
犬の銅像の前は多くの人でごった返していた。男も女も、若者も老人も、それぞれ確固たる目的があってここで誰かを待っているのだ。
そのとき、一人の女性が目に入った。この雑踏の中でも圧倒的存在感を放ち、決して埋もれることのない、光。
「ごめーん。おまたせー」
もう一人の彼女は高いヒールをコトコト言わせながら、小走りで向かってきた。ざっくりと開いた胸元。厚い唇。美しいブロンドヘアーは一定のリズムで揺れ、キラキラと輝く黄金の波が僕を誘惑しているかのようだ。
到着するなり彼女はぐいと僕の腕をつかみ、胸を押し付けてきた。甘ったるい香水の匂いが鼻をくすぐる。一瞬で射程圏内へと引きずり込まれた。彼女が耳元で囁く。
「じゃあいこっか」
僕らは並んで歩き出す。繁華街のネオンは僕らに向けられたシャッターのようだ。彼女が隣にいると、僕まで華やかになったかのような錯覚に陥る。
歩を進める最中も、彼女の腕が、指が、蛇のように僕の身体を伝う。それは繊細で、神経の一本一本を丁寧に撫でられているみたいだ。
ゾクゾクっという音が、漏れ聞こえてしまったんじゃないかと思って彼女の方を見る。彼女は、ちゃんと聞こえたよ、とでも言うようにニヤリと妖艶な笑みを浮かべた。
誰と一緒にいたいかというのは、誰の言葉を聴きたいかということ。
それで言うと、彼女は舌の使い方が上手い。