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随筆:「漫才」 笑いのメカニズムの分析

M-1グランプリ2019

今年の漫才頂上決戦,M-1グランプリは一段と盛り上がった.初出場が7組で「本当に面白いのか」「今年はハズレだ,諦めよう」と言われる中,ほとんどのコンビが高レベルな漫才技術・ネタを投入し,例年になく豊作だったように感じる.M-1グランプリの元々のモチベーションが,若手漫才師を発掘するための場所として位置付けられていたのを考えると,ミルクボーイ,ぺこぱ,オズワルド,すゑひろがりずなど,独特な漫才師たちの存在を(私を含め)世に知らしめるきっかけになった.

コンビごと,またコンビ内でも年を重ねるごとに,漫才の形は変化していく.しかし笑いの技術が高いと思わせるような漫才コンビは,総じて「独特な笑いの方向性」を追求しているように感じる.ここでは,いくつか私が面白いと感じた漫才のやり方を分析することで,漫才を通じた「笑いのメカニズム」を少し垣間見てみようと思う.

1. ミルクボーイ:「当たり前」の畳み掛け・揺さぶり

なんと言っても最初に取り上げた方が良いだろうのは,今年のM-1覇者であるミルクボーイである.今年のM-1は彼らのシンデレラストーリーとして,様々なメディアに大々的に取り上げられ,一夜にしてメディアで引っ張りだこになる時の人となった.

彼らの漫才を聞いた方は多いと思うが,審査員のサンドウィッチマン富澤に言わせれば「おじさんが,ひたすらコーンフレークだ,コーンフレークじゃないいっているだけで,なんでこんなに面白いんだろう」という.確かに,決勝の初戦では4分間「コーンフレーク」を言い続け,決勝最終戦では4分間「最中」を言い続ける.試しにM1の決勝初戦の『コーンフレーク』のネタで「コーンフレーク」といった回数は,実に4分間で両者合わせて36回(内海:31回,駒場:5回)であった.

一回の掛け合いは,次のように展開する.

駒場「おかんが言うには,晩御飯で出てきても全然いいって言うんや」
内海「ほな,コーンフレークと違うか.晩飯でコーンフレークが出てきたら,ちゃぶ台ひっくり返すもんね.コーンフレークは,まだ朝の寝ぼけている時やから食べてられるのね.食べてるうちにだんだん目が覚めてくるから,最後ちょっとだけ残してまうねん.そういうからくりやから.」
[M1グランプリ決勝・初戦,ミルクボーイ『コーンフレーク』]

駒場が「そのものの特徴」を言いながら,それに内海が「コーンフレークだ」「コーンフレークでない」と言いながら,その理由と解釈を付け足していく.その掛け合いがひたすら,ほぼ肯定と否定が交互に押し寄せる形で揺さぶっていくようなスタイルである.そして彼らの一つ一つの話は,「コーンフレークは朝食に食べるもの」「コーンフレークの栄養素の五角形は大きい」など,言われてみれば「ああ,それはそうだな」と思うものばかりである

だが,最初は「ん,なんだ,当たり前のことか」と思っていても,気づいたらどんどんと惹かていく.現に,M1の最初,彼らの漫才スタイルが聴衆に伝わっていない冒頭1,2つは,客がほとんど笑っていないことから,その「惹き込む漫才」がうまくデザインされていると言えるだろう.

彼らの漫才の特徴は大きく3つあると考えられる.

(1) 「当たり前」の畳み掛け:ネタの大半は日々暮らしている中で,無意識のうちに「当たり前」と思っていることである.漫才のネタとして使いながら,それをたたみ掛けることで,じわりじわりと引き込んでいく.
(2) 「当たり前」の揺さぶり:松本が「行ったり来たり漫才」と評したように,肯定と否定を繰り返すことで,うまく揺さぶりながら(1)の畳み掛けのマンネリ化を抑えている.決勝の最中は,後半の肯定が「最中の家系図」に焦点を当てていたが,否定側で一旦それを忘れさせることで,同じような内容に対する「蛇足感」を防いでいる.
(3)「当たり前」を紡ぐ言葉の意外性:当たり前のことを言っているが,一つ一つの語彙のチョイスが絶妙である.「煩悩にミルクをかける」「まだ寿命に余裕がある時の食べ物」「自分が得意なところで攻めている」など,擬人化や比喩表現を多用することで,「当たり前」を漫才のネタに昇華させ,言葉の綾の中に笑いを引き出している.

このような「当たり前」「あるある系ネタ」を扱った類似の漫才師や芸人として,テツandトモ『なんでだろう』,レギュラー『あるある探検隊』,COWCOW『あたりまえ体操』などが挙げられる.しかしミルクボーイのネタの場合は,たくさんのあるあるを詰め込むのではなく,ネタ中はほぼ1つの話題で畳み掛け,その話題を肯定と否定の表現で揺さぶり,言葉の意外性をスパイスに,ひたすら一つのネタを押し切るところに特徴がある.彼らがM1の頂点に上り詰めた一つの要因は,「あるある系」にありがちな「色々なあるあるを一言ずつ扱いながらたたみ掛ける」というタイプの笑わせ方ではなく,テーマを一つに絞って深く彫り込み,無意識下の「当たり前」を膨らませ,揺さぶりながら大きな笑いに変えていく,という高等なテクニックが使われていた部分も「笑いの新しさ」があったのではないだろうか.

2. ぺこぱ:「全肯定」による非常識の常識化

ミルクボーイの優勝の陰に隠れてしまったが,独特の漫才スタイルを貫いた「ぺこぱ」という漫才コンビがいる.彼らの(現在の)漫才スタイルは,ボケのしゅうぺいが繰り出す天然な行動に,キザな松蔭寺がひたすら肯定系で突っ込んでいくという,松本曰く「ノリツッコまない漫才」というスタイルである.

彼らの漫才は次のように展開していく.

しゅうぺい「ききーっ,(沈黙)」
松蔭寺「どうしたんですか」
しゅうペイ「休憩ですー」
松蔭寺「いや,休憩は,取ろう.働き方を変えていこう.」
[M1グランプリ決勝・初戦,ぺこぱ『タクシー運転手』]

しゅうぺいが様々なボケを繰り出すところまでは,普通の漫才師のネタと変わらない.しかし松蔭寺は,多くの漫才でありがちな「違うだろ」「そんなわけないやん」「何やってるんだよ」とボケを否定する形ではなく,「いや,この行動には何か意味があるかもしれない」「何か理由があるのだ」と考え,ボケを肯定する形でツッコミを入れていく.

ボケの「非常識・ずれ」に対してツッコミが「常識」側としてどのように対応するかというのが漫才の一つの見所であり,各々の漫才師の個性が出る部分と言える.多くの漫才師は,ボケの「非常識」を,「いやそれはない」と否定する形で常識側に引き戻し,その掛け合いで笑いを取っていく.一方で,ぺこぱは「非常識」を「理由があるのかもしれない」と新たな解釈を提示する形で常識側に引き戻し,その解釈によって笑いを取るという新たなスタイルを開拓している.非常識を非常識として切り捨てるのではなく,非常識を常識側から解釈することで,「表面上非常識に見える事柄の常識化」を試みている.しゅうぺいの非常識さの原因を「解釈のすれ違い」に求めている点で,他の漫才と一線を画すると言える.

すれ違いのコント師として名高いのは,アンジャッシュであろう.彼らは一つの画像や会話の微妙なすれ違いを演出し,互いが違うことを考えているのに,ある時は会話がすれ違い,ある時は偶然に符合するような揺れ動きを笑いに転換している.例えば,『先生』のコントでは,手術後の外科医と小学校の先生が題材となり,その二人が偶然にも「先生」として隗囂するところから話が始まる.どちらも子どもを扱う先生であるが,その扱いが違うことから,互いの行動が理解できずに,「何やってるんですか」と互いが互いの言動を突っ込んで行くスタイルである.

これに対し,ぺこぱの漫才は,すれ違いの扱いを変えて「非常識を常識化」する.電車で変わった行動をしている人や,ちょっと迷惑をかけた人,そういった狂気のカケラを断罪するのではなく,「空気」に根拠を求めて狂気を解釈し,受け入れていこうと努力する.昨今,Social Network Service(SNS)で相手の発言を罵倒しマウントを取ったり,相手の意見を聞き入れず人格否定をするという場面が多く見られる.その中で,互いの主張を「非常識」として断罪するのではなく,「解釈の違い」によって受容を試みる彼らの漫才は,まさに今の時代に一つの理想的な人のあり方を体現していると言えるのではないか.

3. すゑひろがりず:古典と現代の融合と乖離

M-1グランプリでは,もう一組かなり独創的な漫才師がいた.すゑひろがりずという.彼らの漫才は,『合コン』など現代的な題材を扱いつつ,江戸時代か室町時代あたりからタイムスリップしてきたような古典の言葉を掛け合いに用いるギャップに笑いを求めている.鼓や扇といった小道具がその演出に

例えば,漫才『合コン』内での山手線ゲームを行う場面では「お菓子の銘柄」として,「寿返し=ハッピーターン」「長芋=ポテロング」などの言い換え,一気コールを「召せ,召せ」と古語を使って行い,古典と現代の融合を試みている.その一方で,そういった古語を使うことで現代の中に違和感を生み出し,笑いを生み出している.なので,彼らの漫才を一言で表すなら「古典と現代の融合と乖離による笑い」と言えるだろう.

ひっそりとYouTubeチャンネルをやっている彼らだが,ある動画では「ウイニングイレブン(サッカーゲーム)を狂言風に実況してみた」https://www.youtube.com/watch?v=Ld8p18huQrw)という試みを行っている.「イエローカード=黄札」「コーナーキック=角蹴り」などの言い換えを巧みに用い,タイムスリップしてきた人が現代で動画を上げているような違和感と不思議な笑いを生み出す.現代の漫才に符合するかはさておき,「誰も傷つけずに笑いを取れる漫才」として今後も笑いを追求していけるタイプの漫才師であると言える.

類似の漫才師として注目したいのは,東京ホテイソンである.彼らのツッコミは歌舞伎調に行われ,誇張した身体表現と言葉の調子が用いられる.今年の準決勝でも独特な世界観を醸し出しており,注目していきたい漫才師だと言えるだろう.

4. サンドウィッチマン:日常における違和感の暴露

今年のM1以外の過去の漫才師について取り上げると,To Appearに書いた程度の漫才師がパッと思いつくが,この分類にはかなり骨が折れそうだ.ここでは,特に私自身が面白いと感じている,サンドウィッチマンの漫才やコントを取り上げて,その特徴を分析してみる.

今でこそ様々な番組にコメンテーターやゲストとして出演する彼らだが,2006年のM-1覇者である.敗者復活から勝ち上がりそのまま優勝をかっさらうという芸当を見せた.彼らの漫才の醍醐味は,「日常の場面における違和感の暴露」にある.彼らが手がける漫才は『不動産屋』『薬局』『電気店』『理髪店』など,ごく身近にある場面が扱われる.多くの漫才では,ボケが富澤,ツッコミが伊達という担当だが,富澤は,例えば電気店の店員では冒頭「3階のたこ焼き機をお探しですか?」と日常の電気店では決してかけられることはない言葉を返してくる.日常の場面を再現しながら,そこに「ちょっとずれた人物」を登場させることによって,違和感を生み出し,日常の綻びを演出している.

ぺこぱが「全肯定のツッコミ」とツッコミ側の独特さが際立ったのと対照的に,彼らの漫才は(富澤が台本を書いているのもあり)「ボケ側による日常場面の違和感の暴露」を独特な感性のもとで描ききっている.この「非日常と日常の間に生まれる違和感」は多くの漫才師が笑いの題材として利用しているように感じるが,サンドウィッチマンはとりわけその脚本のセンスで群を抜いているように感じる.

笑いの共通点:解釈の「揺らぎ」と「綻び」が生む違和感

ここまで四組の漫才師を取り上げて,漫才についてみてきたが,ここで簡単に私なりに,彼らの笑いに見られる共通点についてまとめておく.

四組の漫才師を分析した共通点としてあげられるのは,笑いの原点は「日常における揺らぎ」であり「常識の網目の綻びとしての違和感」にあることである.わけのわからない場面(=非日常)でわけのわからない漫才を繰り広げても,おそらく「ふーん」と受け流される.どの漫才師も,取り上げる場面はごく身近であり,日常の些細な一場面か,人々が多く知っている題材を扱う.しかし,その中でちょっとずれた価値観を持つ人物が登場したり,ずれた言葉を使う人物が登場するなど,非常識側のボケと常識側のツッコミの間で,解釈が揺らぎ,またそこから日常の綻びが生まれていく.その「揺らぎ」と「綻び」のなかで,日常に違和感が生まれ,その違和感が「笑っても良いのだ」という受容感が与えられた場面において,笑いに変えられていく.

笑いとは,些細な違和感や揺らぎの中に生まれる.突飛なアイデアや突飛な場面を思いつくことではなく,日常の場面をいかに切り取り,違和感を生み出すかという非常に緻密な組み立ての上で,面白い漫才が出来上がっていくのではないだろうか.

ここでは取り上げきれなかったが,漫才の類型として他にも下記のようなものが挙げられるだろう.ただし,これらの分類は排他的ではなく,この分類を複合的に用いている漫才師も多いように感じる.

(1)作品ー鑑賞者関係 / ボケの暴走に生まれる笑い
サンドウィッチマンと似ているが,特にボケ側がツッコミを置いていって,ツッコミ側が必死にそれを引き戻そうとする,という構図を使う漫才師をここに分類する.平たく言えば「ボケのぶっ飛び方が面白い」漫才師たちである.
代表例として,南海キャンディーズ,オードリーなど「ボケが作品として機能している場合」やスーパーマラドーナ,アンタッチャブル,フットボールアワー,かまいたちあたりの「ボケがツッコミを置いて暴走する場合」が挙げられるだろう.

(2)言葉の機微を活用した笑い
ここに分類するのは,「言い間違い」や「聞き間違い」に代表される,言葉の綾をうまく活用した漫才である.一見肯定だと思わせて実は否定だったとか,言ってることはわかるけれども言葉がずれている,というような漫才を挙げる.おそらく,ここに分類されるのは日本語以外に翻訳しようとすると難しいタイプの漫才が多いだろう.
代表例として,ナイツやチュートリアルあたりの「言い間違い・言葉の響き」を活用した漫才,パンクブーブーの「肯定ー否定の揺らぎ」を活用した漫才が挙げられる.

(3)独特なスタイルに生まれる笑い
ぺこぱのように「スタイルの独特さ」に笑いが生まれていくタイプの漫才師をあげておく.まず,笑い飯は「ダブルボケ」と言われるように,「俺もやってみたい」とボケとツッコミが絶え間無く入れ替わり,その入れ替わりのスピード感とネタの切り口の独特さによって,笑いが生まれていく.あるいは,スリムクラブのように「間」を活用した漫才もある.また,ハライチは先の二者よりはスタンダードだが,ボケ側が「融通のきかない常識」を担当し,そこにツッコミ側が翻弄されていくタイプの漫才であり,独特な世界観を作っている.

(4)その他
ここでは分類しきれなかったが,ブラックマヨネーズやノンスタイル,トータルテンボス,銀シャリ,和牛あたりも(1)と(2)の中間部などに位置付けられる気がしている.私より漫才を多く見ている方もたくさんいらっしゃると思うので,うまく分類できるような指標があったらぜひアイデアをいただきたい.


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