随筆:「エッセイ」

noteというツールを使って随筆を定期的に書こうと思ったのだが,1回目のテーマを何にするか,悩んだ.「エッセイ(随筆)」それ自体を1回目のテーマにしてしまえば,最初のテーマ設定的には悪くない.初回はエッセイのエッセイということで,「エッセイ(随筆)」について書きとめておく.

鷲田清一『想像のレッスン』,ロラン・バルト『表徴の帝国』,赤瀬川原平ほか『路上観察学入門』.いずれも私が好きなエッセイである.エッセイとは日本語では随筆ともいう.Wikipediaの「エッセイ」の項によれば,

文学における一形式で、筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文

とある.文章など「筆者の体験や読書などから得た知識をもとに」描かないものはないわけだから,小説以外のなんでもありの世界という総合格闘技の雰囲気だ.

例えば,ロラン・バルト『表徴の帝国』は,平たくいうならば「フランス人哲学者が見た日本の風景の随想録」だが,ざっと次のような調子で文章が続く.

パチンコは、集団的で、しかも一人ぼっちの遊びである。機械は長い列をなして並べられている。自分の絵画の前に立ったお客はおのおの自分だけで遊び、隣の客など見もしない。そのくせ隣の人とは、肱と肱とをふれあっている。お客の耳には、はじかれるたまの音しか聞えない(玉をいれる間隔はひどくみじかい)。パチンコ店は、いわば蜜蜂の巣箱、または工場である。[ロラン・バルト『表徴の帝国』(ちくま学芸文庫)pp.48-49]

パチンコの台の前に立つ客を「自分の絵画の前に立った客」と表現し,パチンコ店を「蜜蜂の巣箱」と表現する.彼の散文には,言葉以上の情景を浮かべさせる上手い例え(メタファー)が散りばめられている.このメタファーのおかげで,読者である私たちは言葉と言葉を渡り歩き,言葉の隙間に潜むイメージを捉えることができるようになる.その「言葉の裂け目」を捉え,宙を舞うように展開していくことが,随想・随筆の醍醐味の一つだと言える.

もう一つ付け加えるならば,論説と違うのは客観的なデータやエビデンスではなく,個人的あるいは個別的体験に根ざした文章であるところにある.昨今「エビデンス」という言葉がSNSを踊り,エビデンスがないものは一切排除するという科学絶対主義的な思想を持つ声の大きな人が一定数存在するようである.

しかし,科学におけるエビデンスとはあくまで「統計的推論」に基づくものであり,個人個人に当てはまるかどうかは定かではない.例えば「この薬は0.1%の確率で重篤な副作用を生じる」と言われて,私たちはある程度のリスクを覚悟で薬を処方されるわけだが,仮に重篤な副作用が生じた場合,重篤な副作用を生じた個人やその家族にとっては,0.1%だろうが10%だろうが副作用は副作用なのである.目の前で苦しんでいる個人を前に数字は無力である.科学は個人に寄り添うことはできない.むしろ個人・個別を切り捨て,普遍性・客観性を追い求めたことで,人類全体の文明の躍進に一役買ってきた側面がある.実際,人類全体の幸福を功利主義的に底上げすることはできるのだろうが,個人個人の機微をすくい上げることは,現在の科学をもってしても容易ではない.

一方で,芸術や文藝の分野は,そういった個人個人の機微をうまくすくい上げることもできるのではないか.特に,随筆は「筆者の体験や読書などから得た知識をもとに」書くわけだから,個人個人の機微自体を思考の出発点にできる.さらに,書く側の効用として,鷲田の言葉を借りれば「想像力」を鍛えることができる.

私たちは、視野に入っているはずなのに見えていないもの、みようとしないものを、言葉で、あるいはもっと別の表現で、見えるようにしなければならない。(中略)目の前に現れていない出来事や過程をのびやかに想像すること、あるいはそれを論理的に問いつめていくこと。これは、科学や宗教や芸術、あるいは政治や倫理や(他人への)思いやり、それらのいずれにおいても根のところで働いているはずの、わたしたちの力だ。それがいまひどく萎縮している。[鷲田清一『想像のレッスン』(ちくま文庫)p.33]

同書で鷲田がいうように,私たちは様々な情報にのまれ「理解不能なものをいまのじぶんに理解可能な枠の中に押し込め、せっかく見えかけているものを、無いかのように棄却してしまう[同書,p.22]」ような生き方をしていないだろうか.

私自身を含め幾人かで今年度「つくる(創造性)」というテーマにフォーカスを当てて,1年間展示やイベントを作ってきたが,まさに「つくる(創造性)」とは,この理解可能な枠から飛び越え,理解不能なものを理解するために新たな枠組みを作ることであろう.私たちは,ある情報が入ってきたときに,鵜が魚を丸呑みするように咀嚼せず飲み込んでしまう,文字通りの「鵜呑み」をするのではなく,これはどういうタイプの情報か,これはどの程度信頼できる情報かを吟味する必要がある.カントなどはこれを「批判」と呼んだ.

相手の意見を罵倒するための「批判」ではなく,ものごとを吟味し,精査するという意味での「批判」を私たちは忘れかけている.日々の批判を言語化し,発信し続けることでこれを乗り越えられるのではないだろうか.私自身はそう考えた.

そういうわけで,週1回か隔週1回程度のペースで,一つ話題を決めた上で,書けるだけ思ったことを言語化するために,このnoteを使ってみようと思う.駄文ではあるが,もしお付き合いいただける方がいたら嬉しい限りである.

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