展示「からだからはなれない」レポート
始まりの言い訳
今回の展示「からだからはなれない」に関して、演出を行った以上、それなりにきちんとした論考を書いて投稿しようかなとか思っていたのですが、たまには私見をただ、つらつらと書いてしまおうと思ったので、岸本の浅慮な気づきや雑感を美術理論と軽く撹拌しながら書きました。そのつもりで読んでください。
0.前日譚
星ヒナコ企画で新宿眼科画廊地下の劇場という場所のみ決まっている状態で始動した。星は絵画家でもあり演劇人でもあるため、今回の展示では美術作品と演劇作品を劇場で一塊の空間にしたい。と語った。
今回、参加作家は星が募集し審査は特に行っていないので、いわゆる関係者同士の交流を行い親睦を深める助手展や教員展、卒業生展のような閉じられた機能の展示会を想定していたのだが、結果として、いくつか興味深い現象が発生したためそれについてここで記録する。
1.インストール
交流展だと思っていたので自分の作品だけ携え、夏場のアイスキャンデーのような溶けた気分で冬の寒さに震えながら新宿眼科画廊へ向かった。持ち前の読みの浅さで1時間遅刻してきた星から、到着後すぐにインストールの打ち合わせを始めた。星は当初入り口から奥に向かって長い劇場を左右両壁の真ん中で壁から出っ張る柱のと柱間の空間を境界に奥の空間で美術作品を展示し、手前の空間で演劇作品を展示する案を提出してきたが、よくよく聞き出してみると星の理想は演劇作品と美術作品を一つの部屋で等価に鑑賞できるようにインストールされた劇場、であったため当初の案は棄却され1から展示案を考えることなった。しかもこの条件では、交流展にするにしても生半可なインストールでは見れるものにならない。演劇作品と美術作品のそれぞれが保持する空間が完全に分かれた場合、演劇作品と美術作品が空間として分断されてしまい双方の鑑賞を妨げるし、演劇作品が主体の空間になった場合、美術作品の扱いが舞台美術としての美術的事物になってしまい鑑賞を妨げる。美術作品が主体の空間の場合、演劇作品の扱いが展覧会の中で叫び舞う狂人になってしまい鑑賞を妨げる。空間全体の没入感の繊細な調整が必要になることが発覚し冷水を浴びた気分で空間を構築した。
2.意図せず現れた事象
大きく2つ
1. 演劇鑑賞の慢性課題である鑑賞者の精神的不自由の緩和。
2. 美術鑑賞の慢性課題であるドーパミンカルテルへの対抗
まず、一つ目の「鑑賞者の精神的不自由の緩和」について。演劇鑑賞においては、一般的に観客は定められた座席に座り、上演時間の間、同じ視点で作品を鑑賞することが求められる。これは没入感を生むのに非常に効果のある空間ではあるが、一方で上演中はトイレ等離席しにくい、途中での入退室も嫌がられる空間でもある。しかし、今回は、観客が好きな角度から好きなタイミングで入退室しながら鑑賞できる仕組みの空間になった。演劇作品が舞台の枠を超えて美術空間に溶け込むことで、演劇の持つ時間的制約が緩和され、観客は自分の意思で視点を選び、鑑賞体験を組み立てることが可能となった。
次に、二つ目の「ドーパミンカルテルへの対抗」について。展示会では、観客は膨大な作品を目にし、短時間で視覚的に強い印象を受けた作品の前で足を止め、作品を受け止める。これは近年のドーパミンカルテルの影響だと考えているのだが、今回の展示では、美術作品が演劇作品のように「一定時間鑑賞するもの」として扱わせることに成功した。観客は作品の前を通り過ぎるだけでなく、しばらくそこに留まり、作品の変化や演劇との相互作用を体験することになる。この「時間を伴う鑑賞」という仕組みが、美術作品の瞬間的な消費を防ぎ、より深い鑑賞体験へとつながる可能性を生んだ。
これらの要素は、当初の展示計画にはなかったものの、演劇と美術の共存を模索する過程で必然的に発生したものであり、結果として、従来の鑑賞体験の枠を超えた新たな視点を提示するものとなった。
今回参加してくれた関係者の皆様、足を運んでくださった来場者の皆様、トラックを運転してくれた板垣くん。ありがとうございました。
なんか、久しぶりにこの楽しさをすごく感じられたような気がします。
3. アーカイブ
企画 星ヒナコ
演出 岸本悠生
朗読劇 高野竜
一人劇 容原静
即興演劇 岩佐美紀
インスタレーション 清原啓
絵画 竹重球
絵画 星ヒナコ
絵画 三好仙理
絵画/インスタレーション 松本琴音
場所 新宿眼科画廊地下
会期 1/31(金)-2/2(日)10:00-19:00(最終日は17:00まで)