自分を変える
学級経営がうまいこといかない。それは○○だから・・・。
○○に入る言葉、それはもちろん「わたしの教師としての資質が未熟」。
なんだけど、結局自分の何がいけないのかがわからない。いろんな実践、経験値を駆使して頑張っているのに、なんでだろ。だから、ついわかりやすいものに置き換えてしまっていた。
つまり
「子どもが高学年で反抗期」
「もともと難しい子ども、特性のある子ども」
「勉強が苦手な子ども」
「家庭の事情がある子ども」
「相性の合わない子ども」
とか
「最近の子どもたちはつながるのが難しい」
「リーダー的存在がいない」
とか
「わたしが女性(母親)」
とか。
ひとつ気をつけたのは、全体的にうまくいってないんじゃなく、ほとんどの子どもはがんばっているし楽しく過ごしているから、学級全員に対して説教することはしなかった。指導するべき子にしっかり伝えなくては、という思いがあったので学級のルールをいちいち確認し、わたしだけでなく多くの友だちが共通して「その行動はやってはいけないこと」だと思っていると伝えた。怒ってみたり、優しくしたり、個別に言ったり、言葉を選んだり。
でも、その子たちはわたしにトゲを向け、否定する。嫌われると単純につらくなった。原因は冒頭に書いたとおりのようなことを思いつくけど、もうどうしたらいいのかはっきりしたアプローチがこれ以上できない。だってわたしは正しいから。
そういう、すったもんだを経てここ最近に芽生えた考え。
「わたしの正しさだけでは通じない」
わたしの正しさはある程度常識的かもしれないけど、もしかしたらどこか違うかもしれない、と考えてみようと思った。すると、その子たちが実は持っている正しさを許容できるようになってきた。そして○○に入る言葉が変わってきた。
「わたしがダメ出しばかりする」
「わたしの表情がこわばる」
「わたしが全員を平等に見ていない」
教師は、相手を変えようとする傾向にある。でも、相手(子ども)は変わらない。変えられるのは自分。子どもも自分で変わるしかない。わたしがやることはわたしが変わることだった。
この考えができたとき、子どもたちに対して「ありがとう」と思うようになった。いや、教室ではすごく憎たらしい時もあるから下校したときにしか思えないけど。少なくとも、明日も学校だな、明日は仲良くなれるといいな、という気持ちです。