韓国日記6ートイレから熱湯

1月末に結婚式をして、韓国での新婚生活が始まった。と言えば、なんにもなかったようだが、無事、二人の生活が軌道にのるまでにだいぶすったもんだがあった。

まず、新居であるが、これは大学で用意してくれた。と言っても、その前に、給料について問題があった。私の給料は国際交流基金からでていたのだが、それについては給料全額ではなく、半額を交流基金がもち半額をTG大学が持つという契約だった。だが、それまで私がもらっていたのは交流基金から出た半額だけで、残りの半額は支給されていなかった。アパートを契約するとそれでは夫婦二人、生活ができないので、それを指摘すると、「もし残りの半額を払ってしまうと学長(=慶州分校長)より高い給料になってしまう」からということであった。それは契約を破っていいという理由にはならないわけで、総長から「そんな恥ずかしいことをするな」という鶴の一声で、給料の代わりに宿舎を準備してくれることになった。

たしか、2LDKのお風呂付のマンションで、二人には広すぎるぐらいだった。外にでると大学が見える、きれいな景観の、それなりの物件で、それ以上給料については文句は言わなかった。

暖房は練炭式ボイラーで、家の入り口に設置されている。練炭は着火炭という、簡単に火が付く炭を上におき、新聞紙などを燃やして火をつける方式であった。お風呂のお湯もボイラーで温めて温水にする。この温水を地下に配線してオンドルにするのである。オンドルは大切で、梅雨のころはこれで部屋を暖めて乾燥させないと、カビだらけになる。練炭は6,7時間しか持たないから、夜の9時につけたとすると4時ごろにはいったん替えないといけない。韓国は冬は寒いので、忘れると凍死する恐れがある。教師を死なせるわけにはいかないというので、独りになった時は、近くに家があるBCという女子学生が毎朝4時に練炭を替えに来てくれていた。

4月に彼女が合流してきて、このマンションで新婚生活を楽しく送っていたある早朝、すごい音がするのでトイレ・バスに見に行くと、なんと、トイレから熱湯が噴出している。すわ一大事というので、水道の元栓をひねってなんとか止めて、その場はしのいだ。明るくなってから工務店に連絡すると、床下の温水配線を間違えて、お風呂に行くべきものを、トイレにくっつけたらしい。どうもよくある話らしくて、すぐに来てくれた配線工事の人は笑いながら直してくれた。

昔は、空気を暖めてオンドルにしていたわけだが、それだと不完全燃焼で一酸化炭素中毒になることもある。当時はみな部屋に入ると十分温かいかどうかを見ると同時に空気が漏れていないかを見ていた。お湯を暖めてオンドルにするのはそれより安全だろうから、当時は最新式だったのかもしれない。知らんけど。しかし、40年たって思い出しても、ひやひやものである。おしりがやけどしなくてよかった。

1980年初頭の慶州のまちは本当に地方の田舎町だった。ソウルなどに行くと日本のような喫茶店もあるのだが、慶州の喫茶店はいろっぽい女の人が接待してくれたり、女性を連れて行くようなところで、一人で行くと怪しがられた。宿舎にいたころは部屋が狭いし、大学の研究室まで行くのは遠いので、日本での習慣の延長で、喫茶店で仕事をしていたのだが、かなり落ち着かなかった。そこでもうすこし遊び馴れた人間なら、女の人をからかいながら、韓国語の練習でもすればよかったわけだが、そのころはそんな精神的余裕はなかった。

慶州の町は、町の中心にはそれなりに店もあるわけだが、すこし離れると街灯もなく、真っ暗だった。町にでて、家に帰ろうとすると明るい光が地面にともっているので、何かと思うと高圧電線が切れて、そこから火花が散っているところだったりした。遠くから見るときれいだけれど、間違って触れたら一巻の終わりである。

また、和食の店(日式と言った)はあったけれど、洋食店は一軒もなかった。休日に昼ご飯を食べようと、心理学のBJ先生と一緒に和食の店に入って、メニューにカレーライスがあったので、久しぶりにカレーを注文したら、待てど暮らせど来ない。BJ先生と話が弾んで、ぼちぼち帰ろうかというころやっと運ばれてきたので時計をみると4時間たっていた(話を盛ってません)。カレー自体はそれなりにおいしかったし、この話はもう何十回もネタとして話したので、十分元はとれたわけであるが、いまだにあれは何だったんだろうと思う。料理長がカレーを作ったことがなかった、材料がなかった、カレールーを買いに行ってた、などいろいろ想像はできるが、いまとなっては確かめようもない。

洋食店は、慶州に来てから一年目にできたが、それはとんかつ(ビフカツだったかも。平べったいとんかつで、オーストリアあたりのシュニッツェルみたいな感じ)の店でとんかつ以外のメニューはなかった。しかも、なぜか若人の店で、大学生しかいなかった。慶州で大学というのは、TG大学慶州分校しかないわけで、そこに行けば自分の学生に会う可能性はほぼ100%なのでおいそれとは行けなかった。

また、韓国日記4に出てくるアレシジャンという市場には、歩いて15分から20分かかる。当然、荷物があるからバスで行くのだが、このバスの番号がまったくあてにならない。当然、行先は書いてあるから、それを読めばいいのだが、ハングルが読めずに、番号を信じて乗ると、ものすごく遠回りするバスに乗ってしまうことになる。歩いて行くより時間がかかるが、背に腹は代えられないと、慶州でしりあったTKホテルの課長の奥さんはその遠回りするバスに乗っていた。うちの奥さんには日本でハングルを教えていたので、彼女はバスの行先を読むことができ、5分で行ける方のバスに乗ることができた。そのTKホテルの課長の奥さんは3年間の間、ハングルを覚える努力をしてなかったことになる。

幸い、大学教員、事務員たちとみなでピクニックに行ったり、海に遊びに行ったり、釜山の日本人会に参加したり、学生に遊びに来てもらったり、ソウルに一緒に行ったりした。

慶州生活が落ち着いてきたころ、私の両親が母方のおばと一緒に様子を見に来た。両親は結婚してすぐにソウル(当時の京城)に仕事で来ていたことがあり、昔の、自分たちの住んでいたところを見てみたいというので、慶州の見物が一通りおわってから、みなでソウルまで旅行して、帰って行った。た。

こんな感じで楽しく過ごしているうちに、さる事情で彼女は日本に帰っていって、単身生活に舞い戻りする。第7話ー時間講師編)に続く