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韓国日記2

お見合い相手から電話がかかってきたときは多少戸惑った。折り返し電話してみると、5月あたりに母親と一緒に韓国に来て、どんなところかを見たいという。電話がかかってくること自体予測もしていなかったのと、韓国への出発まで短期間であんまりいろいろなことがあったので、すっかりお見合いしたこと自体が記憶のかなたに行ってしまっていたのである。もちろん、断る理由もなく、どうぞとなり、次第に彼女たちの来る日を期待する日々となる。

後で知ったのだが、彼女たち母子は無類の旅行好きで、単に慶州は行ったことないから、旅行するいい口実ができたというぐらいのつもりだったらしい。

その間に、韓国のいろんな事情が分かってくる。前の年に、朴大統領が1979年10月に暗殺され、その年の12月に全斗煥が軍の実権を握り、軍事クーデターを起こす。したがって、私が韓国に行ったときは軍事政権で戒厳令下だったことになる。ここら辺の事情は「第五共和国」という韓国ドラマがかなり生々しく描いている(このドラマあくまでもフィクションであり、どれくらい事実にもとづいているかはわからない)。北の方とも緊張関係が続いており、北のスパイが捕まったという報道も日常茶飯であった。また、政府批判をすると警察に捕まるということもよく言われており、タクシーで政府批判をしていた客がそのまま警察に連れていかれたといううわさもよく聞いた。

わたしはと言えば、とにかく韓国生活になれようと、学生たちと話したり、本屋で小学生向けのお話の本を買ってきて、眺めたり、テレビを買って、毎日、韓国語の習得に努めた。慶州の方言は慶尚道北部方言で、かなり、ソウル方言とは異なっており、私に聞き取れるのは事務員と先生方だけ。若い人はともかく、年配の人たちの話す韓国語は強い慶州方言で、ほとんど聞き取れない。特に、クリーニング屋のおじさんの話す言葉は全くなぞで、奥さんに共通語に通訳してもらっていた。言語学者の端くれなら、方言調査をすればいいじゃないかといわれそうだが、このころの韓国は軍事政権で戒厳令下にあったわけで、そのような調査をすればスパイに間違われそうな雰囲気でとても調査などできなかった。おまけに、当時私はがちがちの生成文法研究者で、方言調査に興味を持っていなかった。

先生方はほとんどがソウルに住んでいて、週末にはいなくなり、月曜日か火曜日に帰ってくるような生活だし、慶州にいるときも宿舎の食事は唐辛子辛いのと塩辛いのでみんな外の食堂に食べに行っていて話し相手になってはくれない。宿舎に残っているのは慶州で絵を描くために残っている美術のNB先生と心理学が専門の女性教授のBJ先生の二人。しかも美術のNB先生は日本語が堪能でブラッシュアップのために日本語で話しかけてくるし、BJ先生はアメリカ帰りで英語が堪能と言うことで英語で話しかけてくる。三人で一緒におやつを食べながら話したことも多いはずだが、語学は易きにつくのが常で、NB先生には日本語、BJ先生には英語で話し、時々は、二人の通訳をするという変な会話をしていたため、韓国語はほとんど話す機会はなく、時折、宿舎の管理人の叔父さんと食事を作ってくれるおばさんと一言二言話すぐらいだった。もっぱら、一人で小学生用の本を読み、テレビのニュースを見たりして韓国語の知識を増やしていた。

日本でビザは取れなかったので、亀尾市にある出入国管理事務所にビザの申請に行った。これには事務員の朴さんというなかなかハンサムな青年が連れて行ってくれた。このときは朴さんとそれなりに会話したと思うのだが、おそらくは彼が一方的に話し、それを聞いていただけかもしれない。なんとなく、彼の日本人に戸惑っているような、どう接していいのかわからないような表情だけが記憶にある。亀尾で無事にビザをもらい、慶州に帰って在留許可証をもらったと思うのだが、ひょっとすると在留許可証は亀尾でもらったのかもしれない。

この後に日本語学科の主任教授SNKJ先生に連れられて、ソウルにあるTG大学の総長にあいさつに行く。ソウルに自宅があるSNKJ先生は私をホテルにおろして、そうそうに帰宅してしまったのだが、まったく、ソウルに不案内の私は、晩御飯をどこで食べていいのかもわからない。そこで食堂はないかとおりて行くと、食堂らしいものがあり、そこに入っていった。普通のレストランにしては暗くて、しかもミラーボールっぽいものがあるので、韓国の食堂はこんなのかと不思議がっていたら、なぜか、女性が次々に現れる。どうも間違ってナイトクラブに入ったらしい。えらいこっちゃと思ってると店長らしい人が現れたので、事情を説明すると(と言っても韓国語なのでどれくらい通じたか不明、このころになると相手の言うことはみんなわかるようになってた)、一応同情してくれて、簡単な食事を出してくれて、通常料金の何分の一かで無事生還できた。この人はえらく親切な人で、何かあったら是非連絡してくれと言って別れた。ただ、実際連絡していたら何が起こっていたのかは知る由もない。

あまりにも、話す韓国語がたどたどしいので、なんとか会話体のテキストが欲しいと思って、開いていた本屋に行って、韓国語版のドラえもんを6冊買って、ホテルで読んだ。この当時の韓国語版は海賊版で、作者は韓国人となっており、マンガも背景をすこしだけ韓国家屋風に書き換えていた。もちろん、子供たちはこれが日本の漫画だということは知っていたが、例えばBJ先生は日本が盗んだと思っており、原作は日本だと言ってもなかなか信じなかった。

総長は、超有名な歴史学者で、学者たるものかくありなんという感じのオーラ全開の方だった。韓国語でいろいろ質問されたが、15分ほどでテストは終わりと言う感じで完璧な日本語に切り替えてくれた。植民地時代(韓国では日帝時代と言ってた)に日本語を学習したのか全くのバイリンギュアルで、日本語力は当然私みたいな若造の及ぶところではない。まあ、それなりにあいさつはうまくいったようで、ひどく疲れてホテルに帰り、その日はちゃんと安いレストランに入って、食事できた(ような気がする)。

慶州は5万人ぐらいの地方の田舎町で、街は昔新羅の都だったころの面影はないが、観光資源は多く、歩いて行けるところに、石氷庫(昔の氷室)、古墳群、瞻星台(天文台)があり、山には摩崖仏、すこし離れたところに仏国寺、石窟庵すこし離れたところには普門観光団地があった。昔も今も新婚旅行の人気スポットの一つである。というわけで、散歩するところには事欠かず、ほぼ毎日観光客気分でそこらじゅうを歩いていた。

どうやって授業していたかはほとんど記憶にない。TG大学慶州校はできたばかりで、日本語学科は一年生と二年生しかいなかった。韓国の大学はすでにかなり詳しいシラバス制を導入しており、前もってシラバスを提出していたはずだが、覚えていない。ひょっとすると学期の途中で行ったので後期から教えることになっていたのかもしれない。

そうこうしているうちに周りが急に騒がしくなってきた。ソウルのデモに参加していた大学生たちが軍事政権に拘束される事態が頻繁に起きて、いつも山にピクニックに連れて行ってくれていた地元の高校の先生のお子さんが逮捕拘束されて行方が分からなくなっているということも聞いた。軍事政権に反対する学生デモが拡大してきて、ソウルの大学には軍の戦車隊が入り、慶州のような田舎でも学生デモがあった。その時には装甲車が大学に入り入校するバスを大学の入口で止め、銃剣を持った兵隊が乗り込んできて、各自の身分証を確認したりしていた。5月17日に全斗煥が戒厳令を全国に拡大し、それに反対して5月18日に光州で暴動が起きる。この暴動は学生デモを鎮圧しようとした戒厳令下の軍の暴行があまりにもひどかったため、一般人がそれを止めようとして起きた暴動とされる。かなり強い報道管制がひかれており、当時韓国では何が起こっているかを把握するのは難しかった。

一週間ほど続いた暴動を鎮圧するために全斗煥は空挺部隊を送り、暴力的な鎮圧をしたため、非常に多くの犠牲者がでた。韓国では死者は300人程度と報道され、日本では当時は2000人以上の死者が出たと報道されていた。光州事件を最初にドラマ化したのは1995年のドラマ「モレシゲ(砂時計)」とされるが(日本語版Wikipedia、実際には不明)で、当時の朴大統領から全斗煥政権の間の空気がよくわかる。このドラマは50.8%もの平均視聴率を取った大ヒットとなった(韓国版Wikipedia)

さて、これらの一連の事態によって当然韓国への旅行は制限され、5月に私を訪ねてくるはずの彼女とその母親はこれなくなった。韓国日記3)に続く