歌謡曲における「ん」の発音について
1. 始めに
しばらく前から気になっているのが、日本語の「ん」の発音である。実際に「ん」が日本語でどのように発音されるのかに関しては国語研の誇る実験音声学者の前川氏が最近一連のMRIの高速撮影を駆使した研究結果を出されているのでそちらに譲る[1]として、ここで考えたいのはもっと卑近な、歌謡曲における「ん」の発音である。まず、日本語「ん」は普通どのように発音されるかを言語学の入門的に述べて、日本語教育的な考察を行い、それから本論に入る。私は言語学者としてはわりと間口が広い人間の一人で、意味論、統語論、形態論、語用論、フィールド言語学、言語社会学、歴史比較言語学まで、論文や概論的紹介を書いたことがあるのだが、唯一単著で書いたことがないのは音韻論と音声学の論文である。というわけで、以下、音韻論、音声学にかかわる文章を書くのだが、専門家として書いたわけではないし、ちゃんとした調査に基づいたものでもない。個人的な思い出と感想として理解いただきたい。
2. 日本語の「ん」の特徴づけ:思い出話
言語学の概論では、「ん」は、それに続く子音と調音位置で同化するというので、homoorganic nasal assimilation(同調音位置鼻音同化)の例として出したりする。他の多くの言語ではこれらの音は区別される。英語でもsin, sing, simは別の単語なので、これを間違えると通じない[2]。韓国語や中国語でも音節末ではこれらの鼻音は調音位置で対立するので、日本人の中国語や韓国語ではそれが区別できなくて、母語話者に笑われたりする。例えば、私は博士課程を終えて韓国慶州で2年日本語教師として生活したことがあるのだが、最初の半年ぐらいは、「中央洞」、「東莱」という二つの地名が発音できなくてこまった。中央洞は、だいたい[t͡ʃu.ŋaŋ.doŋ]、東莱はだいたい[toŋ.nɛ]と発音されるのだけれど、この[ŋ]と[d]、[ŋ]と[n]の連続の発音が最初のころうまくできなかった。
中央洞は、チュアンドンみたいに発音すると「んど」が[ndo]になってしまうし、東莱のほうはトンネみたいに言うと、「んね」が[nne]みたいになって、全く通じない。韓国語では[ŋ]と[n]は区別しないといけないので舌先を上あごにつけないで後舌部分を上にあげて[ŋ]の位置を維持しないといけない。途中までアンコ、トンケというつもりで言えばいいと思ってやってたら、それでも通じない。東莱は金海空港から慶州への高速バスの乗り換えで、中央洞は宿舎のあったところなので、バスの切符を買うとき、タクシーの運転手に行先を言うのに、毎回言わないといけない地名だった。つまりこれらが通じないと家に帰れないわけで、必死で練習した。
日本語のアンコの「ん」は、どちらかと言えば母音の鼻音化の方が主だから、[k]との調音位置の同化はあまり重要でないのかもしれないと思って、むぎゅっという感じ[3]で次の子音を発音する前にちゃんと発音して、それから[d]の発音をするようにして、なんとか一発で通じるようになり、無事バスの切符を買い、タクシーに乗れるようになるまで3か月ぐらいかかった。
3. 日本語教育における「ん」
ことほどさように日本語の「ん」の発音は変幻自在で、後ろの子音に影響されるため、非母語話者の日本語習得は難しかったりする。それはこの字は(音は)、このように発音するというように簡単に説明できないからである。おまけに、普通、後ろに来る子音の調音位置と同化すると言われるとアンコは[aŋko]みたいな発音になるわけだが、この単語を[ŋ]を正確に発音すると日本語としては結構違和感がある発音になる。もちろんこの違和感の要因はいろいろあって、日本語では「ん」は1モーラをなすのに、例えば、英語、韓国語、中国語母語話者では[aŋ]を一音節で発音するために生じる違いからくる場合もあるであろう。もっと大きいのは実際の日本語の自然な発話では[aã]のように「あんこ」の「ん」の発音は「あ」の鼻母音化に近い発音の方が多いこともあるかもしれない。実際、自分で発音すればわかるが、丁寧な発音で、一音ずつ発音すれば、「あん」の「ん」は「あ」の場合より口を閉じることが多いが、「あんこ」では特に閉じずに「あ」のまま発音してもよいことがわかる。「あん」を単独で発音する場合でも[aã]と発音する場合の方が自然に聞こえる場合も多い[4]。日本語教育で自然な発音を指導する場合はそう指示するほうが良い場合もある。そのようにすれば「その案を採用します。」の「案を」[ano]と発音したり、「本を買った。」の「本を」を[hono]と発音してしまうのを避けることができる。42年前に韓国で日本語教師をしていたとき「本を」を[hono]とリエゾンしてしまう韓国人学生に「本」と「を」をくっつけて発音してはいけませんというと、[hoŋ ʔo]と発音したり、[honʔo]と発音したりするので困ったことがある。それで、もう鼻母音にしてしまうのが一番手っ取り早かったので、そのように指導した。
4. 歌謡曲における「ん」の発音
さて、いよいよ本題である歌謡曲における「ん」の発音である。といいつつ、もうすこし前書きを。言語学の一年生の概論では、音素とその実現という話をするが、音素は単語の意味を区別する際に使われる弁別的な素性の束で、理論抽象的な存在である。それが実際、単語の発音で実現する場合、現れる環境で実現形式が決まるのが条件異音、同じ環境で実現することができるのが自由異音とされる。例えば、韓国語では破裂音と破擦音には、平音、濃音、激音という3つの対立があり、これらの違いは意味の区別を担っている。日本語ではこれらの音は対立しない。例えばtの平音、濃音、激音を精密な音声表記を無視してt、tt、 tʰとあらわしたとすると、[taŋ],[ttaŋ],[tʰ aŋ]はそれぞれ「党、当など」「土地など」「糖など」すべて別の単語になる。日本語でこれらを韓国語風に発音しても同じ単語「たん」の別の発音にしかすぎない。これに対して韓国語では有声、無声の違いは対立せず、意味の違いは担えない。有声、無声は基本的には環境によって決まる。たとえば韓国語ソウル方言では破裂音破擦音、破擦音の平音[p, t, k, t͡ʃ]は、有声音に後続するときは有声化する[5]。韓国を表す/hankuk/は実際には[hanguk]と発音される[6]。
私が発音できなかった、中央洞の洞は「町内」という意味の単語である[toŋne]では[toŋ]であるが、中央洞[t͡ʃu.ŋaŋ.doŋ]で有声音ŋの後に続くので[doŋ]となるのが普通である。これに対し、日本語では、「か(蚊)」と「が(蛾)」が違うように有声・無声は対立し、意味の違いを表す。
さて、日本語の「ん」の様々な実現形は後続する子音によって実現の仕方が変わるので、条件異音とされることが多い。実際、普通の日常的な使用ではその通りと考えられる。しかし、もともと意味の区別を担わないのであるから、その環境を入れ替えても気が付かない場合も多いのではないかと思われる。自由異音はスタイルなどが関係すると思われるが、条件異音は環境同化か歴史的な変化による。そこで気が付かないかどうか、時々、「死んだ」を[ɕinda]でなく、[ɕimda]と発音したりして相手の反応を見たりするわけだが、そんなことしても、はっきり変な顔をしてくれるわけでもなく、実際、どう思われるのか聞いても変人扱いされるだけだから、あんまり何度もやるわけにはいかない。
そんなことを考えながら、なんと間抜けなことに自分が「死んだ」を[ɕinda]の代わりに、まったく無意識に[ɕimda]と発音している場合があることに気が付いた。私はカラオケで歌っているときはほとんどの「ん」を環境にかかわらず[m]で発音していたのである。一度気が付いてみると、それなりの数のプロ歌手がこの発音を採用し、「ん」を普通は[n]となる[t,d,s]の前でもmで発音している。例えば、来生たかおと谷村新司が二人で歌うシルエットロマンスではヒロインの「ん」を[m]で発音しているし(1分12秒あたり)、坂本冬美の「ずっとあなたが好きだった(2分52秒あたり)」では「結んではまた解いて」の「結んで」の「ん」を[m]で発音している。生演奏である前者と違って後者はプロモ映像なので、実際に発音しているかどうかはわからないが、彼女が「結んで」の「ん」のところではっきり唇を閉じているのは確かである。坂本冬美は、コロナ禍中に自宅で歌を歌ってYouTubeで流しているがそのうちの一曲「港祭の夜は更けて(https://youtu.be/E6FYmvXtYC0 4分45秒」の「あなたなんです」の「ん」も唇を閉じている。また、玉置浩二の「ワインレッドの心(31秒あたり」も「もっとキスを楽しんだり」の「ん」を[m]で発音している[7]。もちろん、どの曲を歌っても話しているときと同じように「ん」を環境同化により発音している歌手は多い。実は私は歌うときはほとんどすべての「ん」を環境と関係なく、[m]で発音しているようなので、プロの歌手もそうかもしれないと思って今回じっくり観察してみたのだが、「ん」を両唇音以外の子音の前で、同化させずに[m]で発音している歌手はそれほど多くはなかった。しかし、確実に何人かの歌手は、すくなくともいくつかの「ん」を両唇音以外の子音前で[m]で発音していることが分かった。
これにはいくつかの理由が考えられる。私自身の発音は[m]の方が、[n]よりソノリティが高いと感じて(あるいは誤解して)、より共鳴する音を求めて、[m]で発音している可能性がある[8]。あるいは[m]の方が[n]より下の位置がニュートラルポジション(なにも発音しない状態の舌、および唇の位置)にあるためunmarkedなのかもしれない。私の場合は、「ん」を、歌を歌う場合は、[n]や[ŋ]の代わりに[m]で発音しているわけで、舌先は下の歯についていることが多い。しかし、上述の歌手の場合には、必ずしもそうではなく、舌先を歯茎につけて[n]を発音していると同時に両唇を閉じている可能性もある。どちらの調音にしても、前述の英語、韓国語、中国語では、[m]とみなされる。また、これらを発音している人も「ん」を発音するとき、自分が[m]の調音をしていることは気づいてないだろうし、それを聞く我々も気が付くことはない。
5. 終わりに
自由異音に関しては場合によっては気が付かない場合も多い。例えば、「パン」を発音するのに、「えっ、パン」と言えば、韓国語の濃音にあたる発音になるかもしれず、ため息をつきながら「パンか」とでもいえば場合によっては[p]が気息音化して、激音[pʰ] になる可能性もある。どちらも普通なら発音の違いに気が付くことはない。
しかし、ある種の条件異音は環境を間違えて発音すれば、すぐに違和感がある。たとえば、/s/はiの前で[ɕi]になるが、方言によっては、/e/の前でも[ɕe]になる。この方言による実現の違いは、いわば言語の規則の差であり、すぐに気が付く。また、「が行音」は方言によっては母音間で、鼻濁音[ŋ]で実現するが、「が行音」が母音間の条件異音として鼻濁音として実現する方言では、それがない方言の話者の発音に違和感があることもあるかもしれない。
つまり、歌という特殊な発声の中とは言え、条件異音がその実現環境を取り替えて気が付かれないというのは結構不思議な現象であると言えるのである。
*引用したYouTube映像であるが、必ずしも著作権をクリアしたものでないものもあるので、坂本冬美の公式映像以外は題名だけを引用した。御自分の責任で探していただきたい。
[1] Maekawa, K. (2021). Production of the utterance-final moraic nasal in Japanese: A real-time MRI study. Journal of the International Phonetic Association, 1-24. doi:10.1017/S0025100321000050
[2] 実際には、日本人には英語では次の単語とリエゾンして音節構造が変わってしまうほうが問題で、can youが[kə.nju: ]とかになると聞き取れなくなる。
[3] 「むぎゅっという感じ」というのは、後舌の部分を上げ、軟口蓋に近づけて、[ŋ]の位置を保つことを意味している。
[4] 日本人母語話者が実際どう発音するかに関してはMaekawa.K.(2021)を参照されたい。ここでは日本語教育でどう指導するのがよいかという観点から述べている。
[5] 実際にはある特定の形態素の後では濃音化する場合もある。憲法を表す/hən+pɔp̚/ではnのあとのpは有声化せず、[hən+p:ɔp̚ ]のように濃音化する。[p̚]はpの破裂部分がなく、両唇を付けたままで発音することを表す。
[6] [hanguk]の[n]は[g]に同化して、[haŋguk̚]となることも多い。
[7] ほとんどflapのような[m]であり、たまたま[n]の発音をしながら両唇が付いた可能性もある。
[8] 3つの鼻音の間にソノリティの違いを認めている実験的研究は知らないのでこの考えにあまり信ぴょう性はない。
*おまけ
以上の文章を書いた後で、松浦年男氏から、ほぼ同じような観察をしている論文を紹介してもらった。私の文章とは違って、音声学的な実証研究であるので、言語学的な考察としてはこちらを参照されたい。
Nogita, Akitsugu & Yamane, Noriko. (2015). Japanese moraic dorsalized nasal stop. Phonological Studies. 18.
詳しく読んでいる時間はないので、すこし感想を述べる。
この論文で歌手の発音を証拠として使うのは、歌手の発音ではeach segment is likely enunciated, so assimilation, coarticulation, and reduction are less likely to occurとされているのは賛成できない。[m]で発音する歌手の発音がenunciatedで、そうでない歌手の発音がenunciatedでないとは言えそうもない。また、上の文章でも述べたように、[m]が唇、舌の位置に関してneutral positionであるというのはそうであろうが、neutral positionがunderlyingとは言えないだろう。
この傍証は次のような例で示せる。宮古島の多くの方言では、音節末の/m/、/N/は対立し、[n]、[ŋ]は対立しない。語末の/N/は[n]、[ŋ]という自由異音を持ち、語中では音節末の/n/は、次に続く音節初頭音の調音点と同化する。さて、池間方言では/m/、/n/の対立は中和し、語末の/N/は[n]、[ŋ]、[m]という自由異音を持つ。この時の、underlying formは[n]と考えられる。これは、トピック形と対格形で実現する。池間方言のトピック形、対格形は名詞の語末が/N/である場合、それをgeminateにして、それぞれ/a/、/u/を加えることで作られる。
宮古島の多くの方言では「犬」は/iN/、「海」は/im/であるが、池間方言ではどちらも、/iN/となる。これをトピック形にすると、池間方言以外では、「犬は」[inna]、「海は」は[imma]となる。これに対し、池間方言では、この時、/N/のgeminate形は、[mm]でなく[nn]となる。すなわち「犬は」も「海は」も[inna]である。underlying formが[m]であれば、すなわち、/N/が[+bilabial]という調音位置の指定を持っているのなら、geminate形は[mm]になるはずであるが、そうはならない。池間方言の話者と共通語話者のneutral positionが違うということは考えにくいから、これはunderlying formとneutral positionが違うことになる。
もちろん、共通語と池間方言、宮古諸方言は違う言語であるからこれをもって反論とすることはできないが、すくなくともneutral positionであることをunderlying formであることの根拠とすることは難しいことはわかるであろう。