韓国日記7ー時間講師
カビ屋敷
また6月になって夏休みが始まり、嫁さんが妊娠して日本に帰るので、ついて帰り、日本でひと月ほど過ごしてから、ソウルであったソウル国際言語学者会議で発表するためにソウルに帰ってきた。ソウルの発表は、韓国在住者として、外国人枠に入れなかったために、予告なく発表時間が10分短くなり、途中で発表を中断せざるを得なかった。それでも、親しい友人たちと1年半ぶりに話すことができて、楽しかった。
ソウルの学会が終わって、慶州のアパートに帰ってきて驚いた。韓国日記6で書いたように、オンドルは梅雨の時期には定期的に火をつけて湿気をとらないといけないわけなのだが、そんなことは知らず、例の女子学生に湿気とりのためにオンドルを動かすことを頼むのを忘れてしまったために、部屋はホラー映画に出てきそうな、恐ろしいカビ屋敷になっていた。
夏休み中とあって、だれも手伝ってくれないので、泣きながらカビを取り、オンドルを着けて、乾燥させた。幸い、台所はフローリングで、バス・トイレはタイルなので、そんなにかびておらず、入ってすぐの小さい部屋と、寝室に使っていた奥の部屋だけをカビ取りすればよかったため、一日もかからず、なんとか住めるようになった。
テグで時間講師
二年目になって生活にもなれてきたので、大邱(テグ)にあるKM大学の日語日文科で非常勤講師(韓国語では시간강사(時間講師)という)として働くようになっていた。週に一回大邱に行き、大学院の音声学と学部2年生の作文を教えた。音声学は最初韓国語で教えていたのだが、日本語でよいというので、日本語に切り替えた。ほかに大学院生の修士論文の指導も入った。修士論文の指導にも謝金がでたため、結構な金額となり、当時は物価が安かったため、この週一回の非常勤の給料だけでほぼ生活ができた。
大邱の日語日文科の主任の先生はLH先生というそれはそれは有名な美人で、私より15歳以上年上だと思うが、源氏を中心とした中古文学の専門家で、姿かたちだけではなく、すばらしく教養のある美しい日本語を話す方だった。日本に研究休暇で来られた時はハングル講座アンニョンハシムニカにも出演されていた。講義の前後にはLH先生の部屋ですこし世間話をしながら過ごすのが楽しみだった。
音声学と作文の時間の間が、すこし離れていたため、昼ごはんは大学院の女子学生と食べに行った。このときに知り合った女子学生のYOさんは博士課程の学生で、現在はKM大学の主任教授をされている。なぜか彼女の同級生の英文科の学生も一緒で、いつも三人でお茶しながら、馬鹿話をした。YOさんは日本語が達者だったが、その英文科の学生は日本語は知らないというので、会話は韓国語だったはずである。この英文科の女子学生も非常に魅力的な人だったのだが、残念ながら、いまはどうなっているかわからない。
大邱の非常勤は大学も楽しかったが、バスの駅で漫画を買うのが楽しみだった。高羽榮の新刊は慶州では売っていなかったためもっぱら大邱の高速バスの待合で買った。ほかに、このころ読んだのはカン・チョルスの「八不出」「囲碁物語(바둑 스토리」、パク・スドンの「再びコインドル(또 고인돌)(「はじめ人間ギャートルズ」のような原始人の家庭を描いたギャグマンガ。実際「はじめ人間ギャートルズの盗作と言われたが、実際にはかなりテイストが違う漫画だった。コインドルは支石墓のこと)などである。
韓国生活の終わり
それなりに新人の教員生活や単身生活を楽しみながらも、韓国の生活にすこし疲れてきていた。軍事独裁政権下の韓国が多少息が詰まるということもあるし、韓国語や韓国文化になじみながらも、もともと韓国のすべてにどっぷりつかるつもりもなかったせいか、小さい文化差などにすこしずつ疲れをためていたのかもしれない。
まだ、契約は一年を残していたが、帰ることを考えた。また、このころ恩師のSA先生から、北京の日本語教師養成講座(いわゆる大平学校)に行かないかという話が来ていて、心は韓国から中国に移りかけていた。韓国日記8-帰国編に続く