見出し画像

宮古島のオトーリと挨拶文化

 宮古島のオトーリをご存じだろうか。宮古島ではオトーリと呼ばれる酒席での交流の儀式があり、広く行われている。似たような儀式は琉球弧の各地で行われており、与論では与論けんぽうと呼ばれるものがある。どちらも酒を飲む前に挨拶を行い、注いで酒席を同じくする人たちに、酒を注いで回る儀式であって、いろいろな作法がある。
 
 宮古島のオトーリはもともと貴重だった酒を皆ですこしずつ分けて飲むということから始まったらしいが、豊かになった現在では泥酔するまで飲むようになってしまい、酔って路上で寝る人まででる始末で、現在は、控えるように市や警察からお触れがでていたりする。最近は単に乾杯ですますことも増えた。また、コロナ感染症で酒の席も設けられなくなり、しばらくは自粛されていただろう。

 しかし、交流の方法としてのオトーリはなかなかなくならず、酒場で何人かが集まると初対面でも、オトーリが始まったりする。
 
 やり方であるが、まず「親」と言う人が酒を注いでもらい、集まりの趣旨を話し、場合によっては自己紹介をする、そして集まった人たち一人一人に注いで回る。そして、全員に注ぎ終わったら、最後にまた注いでもらって、簡単に挨拶をし、次の親を指名して、その人が同じように挨拶をして、全員に注いで回る。10人いれば、11回飲まなければならないわけである。オトーリに使う泡盛はだいたい4分の1ぐらいに薄めてあるので、それほどアルコール濃度が高いわけではないが、11杯飲めばひどく酔うし、1ラウンド回って終わりと言うことはなく、ふつうは2ラウンドあったりする。禁止されるのもうなづける。
 
 さて、ここで話題にしたいのはオトーリそのものより、その時に話される挨拶である。10人いれば、一人二回ずつ、20回の挨拶があるのである。中には演説や小話、場合によっては歌とおどりが入ることもある。起承転結の整った非常に聴きごたえのある挨拶をする人もいて、その場の人たちの非常な尊敬を受ける。
 
 実は宮古島は挨拶文化で、女性はオトーリをしないのだが、集まると誰とも言わずやはり挨拶をする。一人挨拶をすると別の人が立ってまた挨拶をする。知り合った女性の方のお宅に昼食をおよばれに行っても、まず、その方が立派な歓迎の挨拶をされる。それにたいしては返礼の挨拶があってしかるべきなわけで、結局、参加者全員が挨拶をすることになる。
 
 私は2006年からひょんなことで宮古島の「西原」という、池間島から150年ほど前に移民してきた人たちがすむ集落での方言調査をすることになり、多いときは年に10回ほど通った。それ以来集落の人たちと交流を持ち、ことあるごとに大小の集会に参加したのだが、この挨拶というのがなかなか慣れない。

集落全体の男たちが参加する祭礼が年に数回ある。その一番大きなものであるミャークズツという祭礼に参加した。これは4日間にわたって行われる豊年祈願の祭礼で、その年に生まれた新生児の名前を神様に奉納したり、豊年を祈願して集落を踊りながら練り歩く。
 
 だいたいこのような祭礼では、普通、同年生まれのものが集まって小集団をなし、そこで酒を飲み、歓談する。私は昭和25年生まれの寅年なのでそのグループに入って、酒を飲んだ。その間、中央というか、メーンの挨拶はマイクを使ってなされ、みな、それを聞く。この時は字長(=村長のようなもの)、老人会長、市長や集落出身の市会議員など来賓などが挨拶をする。それを聞きながら、自分たちの集団では、世間話が一段落するとオトーリが始まり、挨拶をする。つまり、ただひたすら挨拶を聞き、挨拶をするのである。

油断しているとお前が寅年代表で中央で挨拶してこいと言われるので、このような席では必ずネタを準備しておかないといけない。当然、宮古語池間方言である。
 
 この挨拶文化にはいつも感心する。来賓の演説などより、集落の長老などの方がずっと含蓄があり、面白い話をされるのである。それに全く躊躇することなく、立ち上がり次々と挨拶をして行かれるのには、本当に驚く。
 
 西原地区は150年ほど前に琉球王府の命令で池間島から宮古島に移住させられた人たちの集落であり、池間方言という宮古島の方言とはかなり異なったことばを話す。私たちが行った相互理解性調査の予備調査では、30%~40%ぐらいの相互理解度しかない。実際、普通、他の地区の人は池間方言は聞いても分からないと言われる。
 
 宮古島の方言は消滅危機度はかなり高く、威信言語(その地域で有力で、標準語として見なされてきた言語)である平良地区の方言は、80代でも日常に話す人はそれほど多くない。例えば、何年か前、80代の人たちの同窓会に同席したことがあるのだが、集まった10名(全員女性)のうち平良方言を流暢に話せる人は2人、聞いてわかる人が一人だった。あとはきれいな共通語を話した。もちろん、我々がいたのでそのように申告した可能性はあるが、実際、普段方言で話していないのはたしかである。
 
 しかし西原地区では、80代で池間方言が話せない人はおらず、30代でも話すのはともかく、聞くほうは問題ない。この聞けばわかるという受動的知識がどのように保障され、強化されているかであるが、西原の場合はオトーリに代表されるような挨拶ではないかと思われる。とにかく、みなの集まる席で、フォーマルなことばを日常的に聞かされるのであるから、日常生活の断片的なことばのやり取りよりも、ずっとまとまった談話にさらされることになる。しかも、そのような挨拶ができることが社会的地位の向上に役立つわけであるから、なおさらである。実際、西原地区では祭礼の際に、自己紹介を大きな声で立派に行えることが、いわば大人の証明のようになっている。これがこの地区において地域方言が比較的保たれている理由の一つであろう。
 
 実は、我々は10年ほど前にカリフォルニア大学UCLA校でこの集落で付き合いの深い10人ほどで西原のことばと文化を紹介する集いを持ったことがある。当時平均年齢75歳ぐらいの人たちであったが、集まった200人ぐらいの学生や教授を前に、堂々と池間方言による挨拶をしていた。西原の挨拶文化が培った人間力の高さを思い知らされた瞬間であった。
 
 さて、翻って、都会の我々の生活において、このような挨拶文化があるだろうか。我々は不断、政治家や結婚式の来賓でもなければ、日常的にまとまった挨拶をすることはない。西原では、普段道で会ってもいわゆる「おはよう」「こんにちは」などの定型の挨拶をすることはない。集落ではほとんど知らぬ人はおらず、そのような挨拶は必要ないからである。そのかわり、集会では小人数から500名の大人数でもただひたすら内容の伴う挨拶をする。その堂々とした態度にはいつもおどろかされるし、関心もする。このような文化のなかで育った言語運用力、それに基づいた精神力は我々も学ぶところが大きい。