見出し画像

【旅日記】氷点下8度の雪の日、ドイツ・ベルリンの壁沿いを歩く

 「東西ドイツ」も「ベルリンの壁崩壊」もリアルタイムで知っている年代ではないですが、小さい頃から何かとテレビでドキュメンタリーをやっていたりして妙に気になる事柄ではありました。中でもドキュメンタリーで、“壁”超えのためにスーツケースや車のダッシュボードに隠れたり、アメリカの軍事機に見せかけて飛行機で脱出しようし、失敗する…などの描写を見たときには本当に衝撃でした。

そんな気になるベルリンの壁ですが、ドイツ旅行をした際についに訪れることができました!ドイツ史も合わせて、旅の様子をお届けします。

まずは、壁建設以前の東西ドイツの歴史を振り返る 

 1945年の第二次世界大戦終戦後、連合軍(アメリカ・イギリス・フランス・旧ソ連)によって、ドイツは東と西に分けられました。

西ドイツはアメリカ・イギリス・フランスが統治し、東ドイツは旧ソ連の統治下となりました。(いわゆる、東西冷戦の象徴となったドイツ。アジアだと、韓国と北朝鮮も同じく東西冷戦の代理戦争の場となりました。)

さらに、東ドイツの中にある「首都ベルリン」も東西に分けられ、西ベルリンをアメリカ・イギリス・フランスが、東ベルリンを旧ソ連が統治することとなりました。

以下が、地図上の黄色囲みの部分です。

1945-90年のドイツ地図

画像1

引用:https://tabizine.jp/2019/01/03/225382/

広大な【赤】の中にポツンとある【青】の土地。こう見ると、西ベルリン(青)だけが東ドイツ側(赤)に飛び地になっているのが分かります。

東西で広がる経済格差、人々は西へ

 しかし、資本主義の西ドイツの経済成長は著しい一方で、旧ソ連による社会主義の東ドイツの経済状況はどんどん悪化していきました。初期の頃は東西の出入りが自由だったので、この広がる経済格差を危惧し、良い暮らしを求めて、東ドイツや東ベルリンに住む人々は西ベルリンに次々と逃亡しました。

資本主義(アメリカ) vs 社会主義(旧ソ連)の対立が激化  

 1947年7月、旧ソ連は西ベルリンへの逃亡者を防ぐため、西ベルリンと西ドイツをつなぐ全ての陸上交通を遮断する「ベルリン封鎖」を実行しました。交通網だけでなく、水や電気も遮断されてしまい、西ベルリン市民は深刻な打撃を受けましたが、アメリカが空輸作戦で食料や物資を送って支援しました。

これにより、資本主義vs社会主義の対立は激化します。

1961年、ベルリンの壁の突然の建設

 次々に西ベルリン(青)へと逃げていく東ドイツ(赤)市民…。東ドイツは、自国民が逃げられないようにと、壁を作ることを決意しました。

そして、運命が変わる1961年8月13日。

東西ベルリンの境界線が突然封鎖され、一夜にして西ベルリンを囲む壁ができたのです。

一夜にして、って本当に恐ろしいですよね。

1946年のベルリン市内

画像2

引用: https://tabizine.jp/2019/01/03/225382/ 

「明日、西側にいる家族に会いに行こう」
「来月、東側にいる友人に会いに行こう」って思っていたとしたら。

明日も明後日も、家族や友人に会えると思っていた人はたくさんいたと思います。ところが、ある日突然ベルリンの壁ができ、家族や友人に二度と会えなくなってしまった人が大勢いると言われています。

日本にある日、突然壁が出現して、両親や兄弟や友達に会えなくなってしまう…。この1961年から1989年の壁崩壊まで、おおよそ28年間。28年後に再会できた例も勿論ありますが、その間に亡くなってしまった人も多いでしょう。その無念さを考えると胸が締め付けられます。

命がけの逃亡

 だからこそ、命がけで逃亡をしようとする人が出てきました。冒頭で書いたように、スーツケースや車のダッシュボードに隠れて逃げたり、色々な脱出方法を試みた人がいたそうです。すると、逃亡者を逃がさない仕組みはどんどん厳しくなり、設備も厳重になりました。壁は、単に壁一枚で隔たれているのではなく、金網や有刺鉄線、監視塔、照明が当たるエリア、更には軍事用の犬がいるとのこと…。

これを聞いただけで、監視に気がつかれずに通過するのはまず無理だろうと思いますし、チャレンジするリスクを冒せない人がほとんどかと思います。実際に逃亡に成功する人もいましたが、失敗して途中で命を落としたり、収容されたまま帰ってこない人も大勢いたそうです。

「最も華々しい亡命者」カラフルな気球を作り、西側へ脱出成功した方の話はこちら▼

1989年、ベルリンの壁崩壊

 東欧で自由化デモが起こるなど、自由化が進みはじめた1980年代後半。

ベルリンの壁の崩壊は、「歴史上もっとも素晴らしい勘違い」により起こったと言われています。時の政府報道官であるシャボウスキーが、「東ドイツの出国の規制緩和はいつごろから」と聞かれた際に、「直ちに」と回答してしまいます。これは勘違いだったそうなのですが、その発言を受けた東ベルリン市民が壁に押し寄せ、国境が解放されたそうです。

 28年間存在した「ベルリンの壁」はついに崩壊。その翌年の1990年に東西ドイツの再統一がなされました。私たちが思い描くドイツ、実は30数年前はドイツは2つの国だったのです!なんだか不思議に感じます。

歴史を振り返った上で、いざベルリンへ!

 そんな歴史のあるベルリンに行ってきました。目当てはもちろん、ベルリンの壁ですが、実際に行ってみると、ここにそんな重い歴史のある壁があったのか…と驚きました。

ベルリンの壁、東西ベルリンにまつわる3つのスポットを回りました。

①East Side Gallery Berlin(イーストサイド・ギャラリー・ギャラリー

画像4

残存するベルリンの壁を利用した、アートギャラリー。平和や自由へのメッセージが描かれています。

 訪れたのは12月のクリスマス前。とても寒い時期でありながら、この日は雪の降った後で特に寒く、氷点下8℃という気温でした。知り合いの紹介で出会ったベルリン在住のドイツ人の女性に連れて行ってもらいましたが、観光客の案内でも無い限りはここには頻繁に来ないようです。歩きながら、時折「ここは東側だったのよ。」とか時々教えてくれました。

氷点下8℃の中、壁の向こう側に思いをめぐらしてひたすら1.3キロ歩きましたが、なんとも言えない時間でした。夜だったこと、雪が積もっていたこともあるかもしれません。

画像5

壁が途切れました。ここで終わりです。 

②Berlin Wall Musuem(ベルリン・ウォール・ミュージアム)

 通称「壁博物館」と呼ばれるミュージアムにも行きました。今回、壁沿いを歩くことに加えて、この博物館も楽しみでした。歴史展示もあるのですが、ハイライトは東から西へ逃げようとした人々の記録です。

当時を描いた絵画や展示は本当に印象的でした。いくつか写真を撮らせてもらったので、紹介します。

画像8


 △この絵は一番印象的でした。この小さな子が、当時を思い出して書いたのかなと想像しました。ドイツや南北朝鮮の話では、家族が離れ離れになったとかよく耳にしますが、こうやって絵で描かれているととても辛いですね。お母さんと思われる女性が、自分の進むべき方向を向いているのが気になりました。もうどうにもならない、後ろに進むこともできない、という諦めなのでしょうか。この子どもが描いた絵だとすれば、お父さんを置いて行ってしまったお母さんへの怒りがあるのかもしれません。もちろん、想像にすぎません。

画像7

△穴を掘って、西へ逃れる様子が描かれています。実際には、このようなこともできないようにかなり深くまで柵があったとされていますので「こんなふうに逃げられたらいいな」という想像かもしれません。壁がポップでカラフルなのは、想像なのか願望なのか、皮肉なのか。

画像8

△壁の逆側を除きこもうとする子どもたちの様子。実際にはこんなに壁際に近づくことはできなかったはずなので、きっと想像の絵でしょう。カラフルな服装、カラフルなお花を持っているところを見ると、資本主義世界=西ベルリン側の子どもたちかもしれません。

画像9

△トランクに入って脱出する様子の模型。こんな狭いところに入って、見つかったら撃たれるかもしれない、と想像すると本当に恐ろしいです。

③Check Point Charlie(チェックポイント・チャーリー)

画像12

 ベルリンが東西に分断されていた時代に、東西の境界線上に置かれていた国境検閲所です。1961年~1990年まで存在し、現在も冷戦の象徴として置かれています。

すなわち、「チャーリー」は特定の人名などに由来するものではなく、日本語でいうならば単に「検問所C」のような意味合いに過ぎない。」

チャーリーさんという人がいたわけではないようです。実際に足を運んでみると、なんてことないのない小屋となっていました。ここで脱出のチェックが行われていたなんて、嘘のように感じました。

画像11

画像12

近くには、ベルリン市内を眺められる気球体験もありました。乗りませんでしたが、東西ベルリンを知っている方が上からベルリンを眺めたら、どんな気持ちになるのでしょう。

----------------------

チェックポイントチャーリーを見学した日の夕方の空。

画像13


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?