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短篇小説「ガールズ・フロム・ザ・スカイズ」

まえがき

初めて小説を書ききりました。
10年前から小説を書きたいという気持ちだけはずっとあって、半月ほど前に書き始め、今日なんとか完成させました。

書ききれた理由は大きいものから小さいものまでたくさんありますが、きっかけとなったのは雷獣の動画です。村上春樹を読んで、彼が野球観戦中に小説を書こうと思い立ったのと同じように(と言うとおこがましいか)俺も小説を書こうと思って、書いてみました。

それはそうと、この前バスに乗ってたらミサミサみたいな格好の人がいてかなりびっくりしたな。











ガールズ・フロム・ザ・スカイズ


 一昔前のアニメソングをBGMに、私は昔のことを考えていた。
 小学校の何年生だったかは忘れたけれど、同じクラスに牛乳をよく飲む子がいた。給食のとき、彼はきまって
「牛乳回収に来ました~」
 と牛乳が苦手な子の席を回って、毎日きっかり3本調達していた。
 当時の私は、どうして彼がそんなに牛乳をたくさん飲むのか不思議でならなかった。牛乳なんてたいしておいしくもないし、たくさん飲むとお腹を下すかもしれない。おまけに給食の牛乳ってぬるくてご飯にも合わない。
 けれども、高校生になった今なら彼の真意も解る気がする。
 例えば、彼は牛乳を飲んでいるようで実は母乳を飲んでいたんじゃないだろうか。いや、実際に飲んでいたのは確かに牛乳なんだけれど、彼は自分が母乳を飲んでいると思いこんでいた、とか。
 思えば彼の家はシングルファーザーという噂だったし、母のいない寂しさを給食の牛乳で埋め合わせていたのだろう。
 きっとそうに違いない。
 まあどうでもいいけどね。


 脳がそこまで考えたとき、賑やかな電子音を隔てて「おえーーーっす」という声が聞こえ、私の思考は遮られた。
 成熟しきっていないパイナップルみたいな声の集合体。何と言っているのかはよく解らないが、いつもどおり部活動のかけ声だろう。何て言っているんだろう、と耳を澄ませても解らないものは解らず、そのうち声は止んで、入れ替わるように低くこもった音が連続するようになった。
 私はこの2年とちょっとで飽きるほどに部活動の音を聞いているから、この音の主がサッカー部であることを知っている。グラウンドのほうに目を向けると、案の定サッカー部がシュート練習をしているのが見えた。
 ところで、この高校に入って以来、私は一度もグラウンドに立ち入ったことがない。一歩たりともグラウンドの砂の部分を踏んだことがない。
 部活動には入っていないし、体育の授業もすべて見学するようにしている。グラウンドがどうしてもだめなのだ。体育は毎回グラウンドでやっているわけじゃないが、体育館のときだけ参加するというのも変なので、適当な理由をでっち上げた。
 体育を見学すると、グラウンドへと繋がっているコンクリート製の階段、あるいは体育館の小窓らへんの床に座って、授業のメモを取るように言われる。私のメモはもう、ちょっとした文庫本ほどの厚さになっていた。
 ちなみに、その階段はかなり長い。大きめの駅にある長めの階段を想像して、その倍くらい長いやつが、校舎を囲む名前のない空間とグラウンドとを接続している。だから上り下りするのにもそれなりに時間がかかって、体育のときなんかはみんな3段飛ばしくらいで駆け下りている。


 毎週金曜日の放課後、私はそのコンクリートの階段に座って考え事をする。高校に入学して以来の習慣……というかもはや趣味だ。階段の中腹あたりに腰かけて、脇にはリュックサックを置き、サッカー部やその他の運動部の練習を見るともなく眺めながら、イヤホンでアニメソングを流して、考え事をするのだ。
 私の学校生活は、この金曜日の放課後を迎えるためにあると言ってもいい。すべては、金曜日のショート・ホームルームが終わってからコンクリートの階段が白色LEDに照らされるまでの数時間に支えられている。そのために、私は毎日毎日同じ快速電車に乗って、代わり映えのない授業を受けて、また同じ電車に乗る。以下くり返し。
 しかし、このくり返しは苦痛でも、金曜日の放課後が毎週くり返されるのは全く苦痛じゃない。今日だってすごく楽しみにしていたのだ。今日のために昨日を過ごしたし、今日のために一昨日を過ごした。
「くだらない」
 と私はつぶやいてみた。
 特に意味はない。誰に向かって話しかけるわけでもなく、なんとなくそう口に出したのだ。斜に構えたようなことを言いたい気分だった、というだけ。返事を求めてるんじゃなければ、くだらないとも本当は思っていない。
 けれども、そのつぶやきは私によって確実に外部に放たれたのだ。


「何がくだらないんです?」
 とうしろから尋ねる声があった。
 振り向くと、そこには一人の男子生徒が立っていた。にこやかな顔でこちらを見つめている。
 カッターシャツに青色の校章が刺繍されているから私と同学年なのだろうが、名前は思い出せない。どこかで会ったことがあるのかもしれないけど、彼の顔は、たとえそうだとしてもすぐに忘れてしまいそうな顔だった。
「お隣、よろしいですか?」
 と続けて彼は訊いた。
 私が了承すると、彼は私のすぐ横に座った。絶妙な距離感だった。
 グラウンドでは砂が舞っている。
「それで、何がくだらないんです?」
「何って――すべてだよ、すべて」
 と私は適当に答えた。「まあ、強いて言うなら、このグラウンドのこと、かな」
「ほう」
 彼は興味ありげにあごを撫でて、それから
「君が体育をずっと見学しているのも、それに関係がおありで?」
 と言う。
 そんなところを初対面の相手にいきなり突かれて私はちょっと驚く。
「知ってるんだ、私を」
「もちろん存じ上げておりますとも。体育のときにいつも見学なさっている方がいる、という話は前々から耳にしていたのですよ。……ですが、その理由については、遺伝性の難病だとか、親の教育方針だとか、タトゥーがあるから着替えられないんだとか、噂を聞くたびに異なっている。それで気になりましてね。たまたま君を見かけたので声をかけたのです、その理由をお尋ねしようと思って」
 やっぱり体育を全見学しているといろいろな噂が立つらしい。見学の理由が理由だけに面倒だ。
「いや、まあ、べつに、たいした理由じゃないんだけど……」
「気が進まないようでしたら、無理にとは言いません。他人の秘密を詮索する趣味は全くもってありませんから」
 と彼は顔の前でひらひらと手を振る。さながら蝶みたいだ、または蛾か。
「うーん……積極的に隠したいわけじゃないんだけどね。とくだん秘密でもないし。ただ、本当の理由を話してもまともに取り合ってくれないだろうな、と思ってこれまでずっと言ってこなかっただけ」
 そこまで言ってしまってから、私は言葉が加速していくのを感じた。幸か不幸か、普段なら喉の入口で飲みこむようなことまで言えている。「笑わずに聞いてくれるなら、話してもいいよ」
「ええ、天に誓って笑いません。……もっとも、僕はいま人を待っているので、その方が来れば途中でおいとましなければいけないかもしれませんが。その場合はまた後日お聞きしますよ」
 スマイル。
 彼の笑みには奇妙な魅力があった。作り笑いではあるんだろうけど、それが見破られることをたぶん彼は想定している。嘘だと解っていても自分のために笑ってくれていると錯覚させるような、人によっては狂ってしまいそうな笑い方だ。
 私は秘密を話す決心をした。彼のスマイルにほだされたのではない、決して。というよりも、彼に出会ったときから私の意志は決定されていたのだ。そんな気がする。
「グラウンドに入りたくないからだよ、私が体育を休んでるのは。入れない、というか。この厭な黄色をしたグラウンドが嫌いだから。きっとグラウンドも私のことが嫌いなんだと思う。グラウンドの砂も、雑草も、整地ローラーも、よってたかって私をグラウンドに入れさせまいとする。だから私も無理してグラウンドには入らない」
 この話は今まで誰にも打ち明けたことがなかった。頭のなかで暴れていた小さな羽虫が外に出ていったような気持ちだ。
 見学している理由は全然秘密だった。本当のことを言ったらキモがられるかも、とか思って友人にも隠していた。以前友人に「なんで毎回見学なの?」と訊かれたときは、「体弱くて、医者に運動止められてるんだ」と儚げにごまかした。そのわりには普通にスポッチャとか行くんだけどね。だから、私の嘘はきっと友人たちにバレている。でも特に誰もなにも追及してこない。
 だいたい、自分でもこの理由はおかしいと思う。グラウンドのさまざまが私を通さないようにしている、なんて話は現実的に考えてありえない。まったく非科学的だ。話としておもしろくない分、オカルトやスピリチュアルと呼ばれるたぐいの話よりももっとひどい。私の自意識過剰が生み出した単なる妄想なんじゃないのか?
 そんなことを考えて眠れなくなる夜もあったけれど、実際にそうなのだからどうしようもない。科学的に立証できなくても、おもしろくなくても、私はグラウンドの本性を知っているのだ。
 私の話を聞いた彼は、しばらく考えこんだあとで
「なるほど」
 と言った。
 宣言どおり、私を馬鹿にするそぶりはない。が、また彼方に目の焦点を合わせて沈思黙考を始めてしまった。
 この彼になら本当を話してもいいような気がしたのだ。たったいま会ったばかりだからそれほど信頼してるわけでもないが、直感的に、彼は私の言い分を解ってくれそうな気がした。
「なんでグラウンドが私を拒むのかはよくわからないんだけど、とにかく、神様は世界をそういう風につくった。天地創造7日目に神様は暇になって手をポキポキ鳴らしたりして、その音の一つがジェット気流に乗ってここまで流れ着いて、そのおかげで数千年後――数万年後?――の私はグラウンドとすれ違っている――最近はそう思いこむようにしてる。いくら考えてもわかんないから。きっと現代科学じゃ太刀打ちできない領域なんだよ」
 私がそう付け加えると、彼はこちらに一瞥をくれて、
「ふうん」
 とだけ言ってまた思案に耽っていった。
 あれ、意外とあっけない。もっと親身になってくれたり、解決策みたいなものを提示してくれたりするのかと思っていたのに。最初は興味津々っぽかったのに途端にダウナーになっちゃって。


 それから空の勢力図が何度か移り変わるくらいの時間が経って、私は思い出したようにいったい彼がどこの誰なのかを訊こうとするが、それは彼の再度の質問に遮られてしまう。
「それなら、君はどうしてこんなグラウンドの階段にひとり座っているんです? グラウンドが嫌いなら、なぜ?」
「私、グラウンドは嫌いなんだけど、逆に、というか、この階段は好き。なんせコンクリート製だから思考が冴える。おすすめだよ、ここに座っていろいろ考えるの」
「いいですね」
 と彼は言ったが、あまり感情はこもっていないように聞こえた。遠くのものを待っている人の虚ろな返答だった。
 彼の、私に対する疑問は解決したのだろうか? それとも私の意味不明な回答でさらなる謎を与えてしまったのか。
 彼は誰を待っているのだろう? 友人、恋人、教師……。べつにそれが誰であろうと私には関係ないんだけれど、秘密を打ち明けた相手だからか、気になってしまう。
 私のことを彼がどう思っているのかは知らない。おおかた、おもしれー奴だなと思っているか、めちゃめちゃ引いているかのどちらかだろう。少なくとも、憧憬や尊敬といった言葉で表されるような感情ではない。
 翻って、私は(今のところ)彼に好意的な感情を抱いている。ただし、ここが重要なのだけれど、それは恋愛感情じゃない。恋愛感情よりもっと尊いもの、の萌芽だ。
 現在の私と彼との関係がガール・ミーツ・ボーイあるいはボーイ・ミーツ・ガールであることはまちがいないが、これと恋愛とを短絡的に結びつけられたくない、という思いがある。物語としておもしろくなくてもいい。おもしろくない関係がいい。


 空が、抽象画を描いたあとのパレットみたいになっている。
 もうそんな時間か。
 サッカー部は気づかないうちに練習を終え、みんなでゴールの中にあぐらをかいてミーティングらしきことをしていた。
 私は、コンクリートに座りっぱなしでいいかげん体が痛くなってきたこともあり、ゆっくりと階段から立ち上がった。今日のところはもう帰ろうか。帰って今日の諸々を整理しなくてはならない。
「もうお帰りですか?」
 と彼は言う。私が帰ろうが帰るまいがべつにどっちでもいい、というような口ぶりだった。
 結局、最後まで彼の真意は解らなかった。こればっかりは私が大学生になっても老人になっても判然としないのかもしれない。まあそれでもいいよ。
「うん、私の話聞いてくれてありがとう。なんだかつかえが取れた感じがする」
「お役に立てたなら、僕にとってもそれ以上のことはありません。こちらこそ、興味深いお話でした」
 彼とはまたどこかで会うような気がするし、今後一生会わないような気もする。
「じゃあね」
 そう言って、私は反転して階段を上ろうとした。今日は金曜日だしコンビニ寄ってあんまんでも買おうか、いや最近発売されたノイズキャンセリング・ヘッドホンの評判が良いからそのために貯金しておこうか、などと考えを巡らせながら、コンクリートから足を離そうとした。
 すると、視界の端に動くものがあった。
「あれは――」
 視界の上のほう、空だ。空に、グラウンドの上空に、なにかがある。
 再度砂が舞う。
「少女」
 と突然彼が言った。
「え?」
「少女ですよ、あれ」
 と彼は空を指差す。長い人差し指だった。
 私はその指に従って空を見上げた。《それ》はまだ遠くてよく見えなかったが、どうやら人型であるらしかった。そして言われてみれば少女のような感じもする。
 しばらく2人で空を睨む。家に帰ろうと思っていたことなんかすっかり忘れて、私の関心はすっかり空に移っていた。《それ》は、まるでカーリングのストーンのように落下し続けている。普段の重力じゃないみたいだ。
 さっきまでミーティングをしていたサッカー部たちも、ぜんぶ放ったらかしてモアイ像になって空を見ている。
 体感にして数分が経ったころ、《それ》はようやく私たちの視力がなんとか届くところにまで落ちてきていた。
 少女だ! ロングヘアでセーラー服を着ていた。紛れもなかった。


 空から(美)少女が降ってくるなんてことは、もはやアニメやマンガで使い古された紋切り型の出来事だ。例えば、いま私が観ようとしているアニメ映画の冒頭がそれだったからといって、私はひとかけらの新鮮さも感じることはないと思う。ああ、またこれか、このパターンか、と思ってすんなり続きを流すことだろう。
 しかし、現実でそんな場面に遭遇してみると、紋切り型とかパターンなんてことはどうでもよくなる。夢やドッキリを疑うまでもない。いま私の目の前で起こっているのは、アニメで観た《あれ》そのものなのだ。
 少女が、私の嫌いなグラウンドの黄ばんだ砂に落ちようとしている。髪が、スカートが、砂塵の混じった空気にたなびいている。階段の中腹から見る降下少女たちは私よりもずいぶんと小さく、空気抵抗にさえ負けてしまいそうだった。
「あ、あれ、いったい――」
 と私は声を絞り出す。その声はごまかせないほどに震えていた。私がこんなことになったのは記憶にあるかぎり初めてだ。
 こればっかりはどう考えても状況が悪い。なぜなら、空から降ってきている少女は、
「――何人いる?・・・・・
 1人じゃなかった。複数。何人もの少女たちがグラウンドに吸い寄せられていた。
「さあ……ざっと、15人ほどでしょうか」
 私とは対照的に、彼はやけに落ち着いていた。まるで、この状況すらも「使い古された紋切り型の出来事」と捉えているかのようだった。
 一方で、サッカー部たちも少女を、いや少女たちを認識したらしかった。それぞれが少女の落下予想地点に行き、腕を前に出して受け止める体勢をとっている。さすがサッカー部、と言うべきか。
 隣の彼もやる気のようで、
「我々も助けに行きましょうか。もしかしたら新たな物語が始まるかもしれませんよ」
 と相変わらずにこやかな顔でそう言った。待ち人がやって来たときの顔だった。


 私は返事をすることができなかった。
 グラウンドに下りるのが嫌だから、じゃない。もちろん嫌ではあるが、私のよくわからない原因不明のグラウンド嫌いなんかよりも、少女を助けるほうが優先されるべきだ。いくら私でもその程度の良識は持ち合わせている。もしくだんの力が働いてグラウンドに入れなかったとしても、このままなにもしないよりはいいし、それに試してみないと判らない。
 あるいは、少女を受け止めるのが嫌なのでもない。むしろそれには――こんな時の表現として適切ではないのかもしれないが――わくわくしている自分がいる。最初はちょっと取り乱してしまったものの、平面の世界でさんざん観てきたシチュエーションに自分が巻きこまれていることを考えると、この妙ちきりんな状況への恐怖もだんだんと薄れてきていた。
 だから、今すぐにこの階段を駆け下りて少女を受け止めに行かなきゃならないのは解っている。私がそうすることで彼の言う《物語》が進むのだろうということも、どことなく理解している。
 しかし、たった一つの懸念が、私の邪魔をしていた。
 私たち2人が少女を助けに行ったとして、受け止めるときに、私だけがひとり余ってしまったら。もし、あの待ち構えているサッカー部たちプラス彼と、ちょうど同じ人数の・・・・・・・・・少女が降ってきているのだとしたら。私の分の少女なんか初めから存在しないとしたら。
 私が走って行ったところで、私だけは少女を受け止められないことになる。
 そのことがあまりにも怖くて、不安で、どうしようもなかった。
 眼球が内側から圧迫されて、心臓は鉄橋を渡る列車のごとき鼓動を打っている。あたりが果てしなく青色に見えた。耳元では秩序の金切り声が響いている。
 我に返ったときにはもう、私はグラウンドと反対方向に走り出していた。
 コンクリートの階段はところどころひび割れている。


 とにかく離れたい、と思った。
 コンクリートの階段を上りきって、ふくらはぎの悲鳴にもかまわず私は左へと曲がる(疾走)。
 向かう先には校舎があった。壁の見えている側面はちょうど影になっていて、窓から覗く蛍光灯がいつもより明るいような感じがした。
 そのまま校舎に突入し、私はニューバランスのスニーカーを脱ぐのも忘れてすぐそばの階段を駆け上がっていく。リノリウムの階段はべつに好きではなかった。
 途中、踊り場の壁にでっかい鏡があって、私は通り過ぎざまにそれをちらっと見る。鏡そのものを見ようとしたのか、それとも自分を見ようとしたのかは解らない。


 特に止まる理由も見つからずただただ衝動のままに走り続けていたら、最上階に着いた。この階には、屋上への扉および屋上がある。
 最上階までノンストップで走ってきたから、かなりしんどい。ドアの前で膝に手をついてはあはあ言いながら私は考える。
 そういえば、私だけに少女が与えられないかもしれない、という悲しさはいつの間にか消え失せていた。どこかの廊下に落としたのだろうか? 誰にも拾われないことを祈る。
 代わりに、少女たちに加えてサッカー部や彼をも置き去りにして逃げて来てしまったことへの主観的な後悔と、そうまでして未来のようなプライドを守ろうとした自分に対する客観的な憐憫とが胸の底から湧き上がってきて、私の背中に粘っこい汗を出した。
 かといって今さらグラウンドへ戻って「やっほー」とできるほどに私は鈍感ではないし、そもそも今から駆けつけたところで少女たちはすでにサッカー部と彼に無事キャッチされていることだろう。そうして物語は私の嫌いなグラウンドで始まるのだ。
 とりあえず、この話には蓋をしておくことにする。しばらく思い出さないでおこう。まだ私にとっては毒性が残っているから、フグの卵巣みたく毒抜きをするのだ。


 で、やっと思考と息切れから復帰して顔を上げると、目の前には屋上へのドアがある。特に意図して走っていたつもりはなかったが、着いてみれば、目の前にあるのが屋上でよかったような気がした。
 ドアノブをひねってみると、円柱形のノブはなんの抵抗もなく回転した。つまり鍵はかかっていなかった。普段なら鍵がかかっているはずだが、まあ空から少女が降ってきた日なのだから屋上の鍵が開いているくらい取り立てて不思議ではない……と思ってから急いではみ出た卵巣を容器に戻してしっかりと蓋をする。
 私は意を決して、というほど気負ってはいなくて、家に帰ってくる感じですすっと屋上へと身をすべらせた。「ただいま~」とか言っちゃいそうだ。ははは。
 屋上は当たり前だがなにもなくて、ただ地面と平行に風が吹いていた。広さは教室1個分くらいで、屋上であるための必要最低限のものしかない。具体的には、灰色の床、というか校舎の屋根があって、それから屋上を囲むようにぐるりと白い柵が設置されている。
 その白い柵を見て、私はなぜかちょっと残念な気持ちになる。柵が高くて一般的な屋上のイメージよりも開放感がなかったからだろうか。もっとこう、街を眺めて黄昏れられるような屋上を期待していたのに。これじゃ監獄だ、あるいは熊を捕まえるための檻。
 しかたなく私は夕方の街並みに黄昏れることを諦めて、柵に体を預けた。汗ばんだ体に、冷たい匂いのする風が心地良い。たとえどれだけ柵が高かろうと殺風景だろうと、なんだかんだ屋上という空間はいいものなのだ。


 そしたらさっき私の通ってきたドアが開いて、中から音もなく女子生徒が現れた。
 制服から察するに私と同学年だが、知らない顔だ。少なくとも同じクラスではない、と思う。
 彼女はにこやかではあるものの、それは真顔の範囲内に収まる程度の微笑で、仮面を張りつけている感じはしなかった。普通に人当たりの良さそうな女子高生というか。しかし雰囲気は蓋の下の誰かと似ていた。
 私が名前を訊くよりも先に、彼女は開口一番
「飛んでしまおう、とか思ってたんやろ?」
 と言った。
 私もさして対人能力が鍛わっているほうではないので、立て続けに初対面の人からポールウェポンのような話しかけられ方をされて、少し困惑する。
 飛ぶ、というのは、屋上から、という意味だろう。私がこんな時間にひとりで屋上にいるから、屋上から飛び降りるつもりだったが怖気づいて柵にもたれている奴だと勘違いされたのだろうか。飛び降りようと思っても、柵が高すぎて棒高跳びでもしないかぎり無理な気がするけど。
 とにかく、
「そんなこと思ってないよ。私は……まあちょっといろいろあってここに来ただけ。べつに飛び降りるつもりはないよ、全くない」
 と弁解しておく。「それで、あなたはどうして――いや、その前にお名前を訊いてもいい?」
 やっと訊けた!
 ところが喜んだのも束の間、彼女は
「そんなんはどうでもいい。それよりも今は君のことやろ?」
 とこちらに向かって歩いてきて、屋上の中央で立ち止まった。私とは相対する形になっている。
 なんだか私が追い詰められているみたいだ。
「私の……こと?」
「そう、今は君が君のことを考えなあかんときなんや。わたしのことなんかどうでもいい。君がどうしたいか、どうするべきなんかを考え。わたしはただ、背中を押すだけやから」
 こんなにも風が吹いているのに、彼女の髪や制服はぜんぜん揺れない。
 私はなんとなく彼女から目をそらしたくなって、柵の間から下界を見る。真下には教師たちの駐車場があった。屋上なだけあってけっこう高いな、うん。
 見下ろした反動で今度は上を見る。空。落ちる少女たちがフラッシュバックして、私は慌てて記憶に蓋をする。
 で、彼女はいったい何を言っているんだ?
「意味解らんか。そりゃあそうやな、よお知らん人にいきなりこんなこと言われても困るだけか。ごめんな、どうも話を徐々に本題に持っていくというのが苦手やなあ、わたしは。本題を先に言ってしまう。……まあええわ」
 彼女は光ある瞳でまっすぐに私を見つめて言う。「さっき、空から少女が降ってきたやろ」
 ぐ。
 せっかく数十秒前に私が閉めた蓋もどこかへ放り投げられてしまった。パンドラの箱みたいに中身が出ていく。希望も赤方偏移で赤くなっていった。
「……見てたの?」
 顔が強張るのが解る。
 しかし彼女はそんなことを意にも介さないようだった。
「図書室の窓から、な。すんごい幻想的やった。あれはたしかに護りたなる。人助けか下心か知らんけど、サッカー部とか必死で受け止めてはったわ。そやけど――」
 と最後に彼女は言葉を切る。
 ……まさか、助からなかったのだろうか、1人。本当は私が受け止めるべき少女もちゃんと降ってきていたのに、私がひとりで勝手にうじうじして逃げ出してしまったから。
 想像してしまう。少女を抱くサッカー部たちと彼、そしてその傍らにはそのまま落ちてグラウンドにぶつかった1人の少女。かろうじて血は流れていないが、地面に落ちた時点で降下少女としての命は失われる。
 こんな時だけ想像力がみなぎる。
 空から降ってきて、誰かに受け止められることを運命づけられた少女たち。自由落下じゃないとはいえ、パラシュートなしでのスカイダイビングはまさに恐怖そのものだろう。それでも地上では誰かが待っているから、その人に受け止めてもらわなければ物語が始まらないから、少女は降下する。
 その《誰か》のうちの一人が、今回は私だったのだ。しかし私は少女を受け止めるという役割を自己保身のために脱ぎ捨てて、逃げた。空に残された少女は地上のよすがを失い、誰にも受け止められないと知りながら無力に落ちるしかない。その恐怖はどれほどのものだっただろうか。想像もできない。
 私が少女を殺したも同然。
 私のせいだ。
 屋上にチャイムが響く。キーンコーーーーーンカーーーーーンコーン、と普段よりも間延びしたチャイム。
 目の前の白い柵は越えられなさそうだった。どうがんばっても不可能な高さだった。なら、窓はどうか。校舎に戻って窓を越えるのだ。屋上ほど定番じゃないにしろ、窓からでも十分な高さがある。
 最上階から落ちていったら、私もあの時の少女の気持ちがわかるだろうか。物語の外に押し出された降下少女の気持ちが。
 私は償いをしなければならない。


 屋上から去るために私がドアノブに手をかけると、彼女は焦った様子で、
「ちょ、ちょっと、待て待て。アホか、早とちりしすぎ。まだなんも言ってへんやろ。君が何を妄想してるか知らんけど、それがまちがってるということだけは解る」
 ……?
「君はどうやらそういう癖があるな。そのせいでいつかほんまに良くないことが起こりそうや。君とは同い年やから偉そうに説教するつもりはないけど、君が立ち直れへんくらい後悔することになる前に、これだけは言わして」
 彼女の顔からは微笑が消えていた。続けて彼女は言う。
「ひとりで勝手に考えこまんと、もっと他人の話をちゃんと聞いたほうがええ。他人――つまり君以外の人間――は、君が思ってるより信頼に足る。君が心のなかでいけ好かんと思ってるような奴も、そいつなりのバックグラウンドとか事情があるわけで、君を貶めようとか企んでるんじゃない。みんないい人なんや、基本的には。だから、そいつらと積極的に親しくならんでもいいけど、そいつらを敵やと決めつけて、話すのすら拒絶するのは良おない。君は自己完結さそうとしすぎや、もっといろんな人の考えを聞くべき」
 彼女が話し終えても、私はなかば放心状態にあった。脳を左から右へと一筋の光線が貫いていた。精神が一気に中世から近代へと流れていった。
 私は、自分のことを理解しているような気になって、実のところなにも知らなかったのだ。毎日のようにあーだこーだと考えていたが、それは自分の外部にあるもののことばかりで、いちばん大事な自分のことを考えられていなかった。彼女は私を啓蒙してくれたのだ。
「はい」
 と私は反省した。いつも私は頭のなかで暗黒ねるねるねるねを混ぜてばかりだった。
「まあ、なんや、このことはいったん置いとこうか。わたしはお説教をしに来たんとちゃうから。君が無事ならそれでいい、君がおったら話は続く」
 次に私が訊くべきことは解りきっている。
「じゃあ、さっきの話の続きは、」
 それに応えて、彼女は話し始める。


 彼女は念入りに「あんな、よう聞き」と前置きをして、
「少女は確かにサッカー部に受け止められたんや。あん時グラウンドにいたサッカー部の全員が、それぞれ1人の少女を抱きとめた。でも、それは少女の全員じゃなかった。
 ぜんぶ終わったあと、グラウンドに倒れとった少女は2人いた・・・・。グロいことにはなってなかったから、あの少女らはわたしたちとは体の構造が違うんやろ。人間じゃないんかもしれん。降下少女の役割は物語のきっかけになることやからな。
 まあとにかく、その2人は誰にも受け止められんかったんや。だから落ちた。解る? もちろんそのうちの片方は君の分。じゃあ、もう片方は誰の分か――」
 彼女は息を吸う。
「――実はな、逃げた君以外に、グラウンドにいながらにして少女を受け止めんかった人がおった。
 制服の彼や。君と喋っとった彼。わたしはずっと図書室から見とったけど、あとにも先にもグラウンドから逃げたのは君だけやったし、グラウンドでひとり突っ立ってたのは彼だけやった。
 その彼が何年何組の何くんなんか知らんけど、喋っとった君なら少なくともわたしよりは知ってるやろ、彼がどんな人間なんか。彼はただ突っ立っとっただけちゃう、手の届くところに少女が落下してきてるのに、なんもせんと突っ立ってた。
 彼は、ある意味では君と同じように、意志をもって少女を拒絶した。なんでやと思う? もう一回だけ言うけど、今は君が君のことを考えなあかんときや」


 ふうん。
 彼女の長い話を聞き終わり、私は考えていた。
 ときに、妄想のとおり本当に私のせいで少女が墜落してしまっていたが、今はそれを気に病んでいる場合ではない。彼女の言うように、降下少女は物語のきっかけにすぎないのだ。人間であって人間でないもののことはさておいて、今は(より)人間(だと思われるもの)について考えなければならない。
 今こそ、私が毎週金曜日にコンクリートの階段で培った力を発揮すべき時なのだ。
 彼女の話がすべて真実だとしたら……どうして彼はあえて少女を受け止めなかったのか?
 私が逃げ出してしまったとき、彼にはまだ使命感があるっぽかった。物語を始めようとしていた。少女を受け止めることで開始する物語を、待ち望んでいるように見えた。
 ただし、彼は主人公ではなく、あくまで補助員に徹していた。そこに彼は自分の存在意義を見出しているようでもあった。
 ではどうして? 彼女によれば、彼は目の前で少女が地面に激突するのを助けなかったという。逃げ出さずに見ていたのだ。そんなのは補助員でも主人公でも、または悪役でもない、物語に登場すらしない傍観者だ。あのあとで急な転向があったのか?
 でも彼はそんな人ではない。私はまだ彼の名前すら訊けていないが、彼は簡単に意志を放棄するような人ではない……と思う。これは理屈とかじゃなくて、感覚だ。科学的に説明しようとしたならば容赦なく壊れてしまう、感覚。彼はきっと傍観者になんかならない。
 だから! 彼は傍観者になったのではなくて、補助員という役割はそのままに、・・・・・・・・・・・・・・・補助する対象を変えた・・・・・・・・・・、としたら……? これなら少女を傍観していたことにも説明がつく。
 じゃあ、変えた先の対象は何か? それまでの対象が「少女を受け止めて物語を進めること」だったとして、少女を棄ててまでして乗り換えるべき対象があった?
 あの時あの場所にいたのは、少女、彼、サッカー部、それから私。あといちおう図書室に彼女。まず少女にバツを付けるとして、次に、彼はグラウンドに直立していたのだからサッカー部もバツで、それから彼がそもそも認識していたかどうか判らない彼女も三角寄りのバツといったところだろう。とすると、残っているのは彼自身と私だけということになる。
 こう考えると、否が応でも一つの結論というか仮説が浮かび上がってくる。
 もしかして、私のため……?
 いやいやまさかそんなことないよな私の妄想がまた出たよ彼女に注意されたばっかじゃんかだめだな私、とは思うものの、今回のは私が彼女の力を借りて真面目にねるねるした結果なのだ。1番の粉と2番の粉を合わせて……というやつを順番にやっていった結果出たのが、この仮説なのだ。
 彼は絶対的に物語の補助員であり、なんらかのきっかけがあって、少女じゃなく私を助けることにした。
 これは私が私のことを真剣に考えて得た仮説だから、見当外れの可能性があっても不安はない。後悔もしない。
「ねえ、もしかして、彼は――」
 私がそう言うと、彼女は、私に向かって満足そうに頷いた。


 空は夕焼け前のがんばりを見せ、昼間よりも青みが増している。
 私はその不確かな希望にすがって、白い柵越しに屋上から下を覗きこんだ。私が先刻もたれていた柵の隣にある、グラウンドに面している柵のほうだ。
 その柵の白く塗装された棒と棒の間からは、影の消えかけている地上が見える。私の嫌いなグラウンド、その中心に彼はいた。
 砂埃はすでに収まっていた。
 彼はこちらに気づくとひらひらと手を振った。少女とサッカー部はもういない。彼らには彼らの物語があるのだろう。
 私はどうにかして身を乗り出そうとする。彼のもとへ行くために。白い柵が阻むけどそんなの私の知ったことではない。私を囲む柵なんかぜんぶ取っ払ってしまいたい。
「わたしが背中押したる――って、言ったやろ」
 と彼女は言い、そして彼女の手がすっかり汗の乾いた私の背中に置かれた。私はそれに身を任せる。
 私は「ありがとう」とせめてものお礼を言った。彼女のほうを振り返って、また前を向く。彼女は嬉しそうに笑っていた。
 私ははたしてグラウンドに降り立てるのだろうか。……いや、立つのだ。私の意志で。グラウンドに対する私の感情を、内側から喰い破る。もう二度と私は希望を見捨てない。
 学校で一番空に近いこの屋上には彼女がいて、地上には彼がいるのだ。











すてきなイラストはノーコピーライトガール





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