見出し画像

「女の子」の型にはまれず、後ろめたさを感じていた幼い私へ。

幼稚園の卒園式の日。

園の入り口付近に置かれた机に、色とりどりの卒園アルバムが並んでいた。私の通っていた幼稚園のアルバムは、子どもたちが描いた絵が、それぞれのアルバムの表紙と裏表紙に印刷される仕様だった。

友達の女の子のアルバムの表紙には、ケーキやお花、ピンク色のハートなんかが描かれ、それはそれは可愛らしいものだった。そんな可愛らしいアルバムが並ぶ中に、真っ青な表紙に星が描かれたアルバムがぽつん、とあった。私のアルバムだ。

先生は、「男の子みたいな絵ね」と言って、そのアルバムを母に手渡した。その瞬間、私は猛烈な恥ずかしさと、そんな絵を描いてしまった後悔と、なんとも言えない悔しい気持ちがこみ上げた。

***

これは、私が6歳のときの記憶だ。なぜ、こんなにも当時のことを鮮明に覚えているのかは分からないが、あの泣きたくなるような感覚は、今でもはっきりと思い出せる。

思い返せば、私は「女の子らしい」とは程遠い子どもだった。ピンクが嫌いで、好きな色は青。キティちゃんもマロンクリームも嫌いで、ポチャッコが好き。ディズニーランドに行けば、ミニーよりもミッキーのグッズを欲しがった。おままごともりかちゃん人形で遊ぶのもつまらなくて、外で鬼ごっこをして遊ぶのが楽しかった。

当時は、世間が考える「女の子らしさ」にことごとくはまれない自分に嫌気がさした。親戚にキティちゃんのグッズをもらうたび、お下がりのピンクの可愛いワンピースをもらうたび、申し訳ないような、後ろめたいような気持ちになった。

小学生の頃には、「私は本当に女の子なんだろうか?」と疑問を持つこともあった。当時、友達の女の子の多くがはまっていたモーニング娘にも、少女漫画にも興味を持てなかった。だから、中学生になって初めて生理が来たとき、「私は女の子である」という確証が得られて、すごくほっとした。

その後の私は、やっぱりおしゃれにも、化粧にも、恋愛ごとにも大して興味は持てなかったけれど、なんとなく女の子を演じることはできたような気がする。たぶんそれは、生理が来て、生物学的には女だという確証を得られたからだ。そして、大人になった今も、スカートをはいて、化粧をして、女性を演じ続けている。

***

こんなことを最近考えるのは、LGBTQが話題になり、性の多様性が叫ばれるようになってきたからだと思う。結果的に、私はLGBTQのどれにも当てはまっていないだろう。でも、「女の子」という型にはめられるのが嫌で嫌で仕方なかった。

もっと多様性を認めてくれていたら、「女性らしさ」を強要しないでいてくれたなら、幼い私はもう少し楽に生きられたのかな、と思う。

私は結婚して、そのうち母になるかもしれない。そのときに、その子供が私と同じ苦しみは味わいませんように、と願う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?