『映画 フィッシュマンズ』を観た 音楽は何のために鳴り響くのか
この世の不幸は全ての不安と、フィッシュマンズの音楽に出会った時には佐藤伸治がこの世にいなかったこと。でもフィッシュマンズに出会い、置物みたいな暇人主人である我々の退屈で幸せな日常を肯定する彼らの音楽に忙殺から日常を奪還してもらえる自分は幸せ者だと心から思う。SpotifyのDiscover Weeklyから流れてきた"BABY BLUE"に衝撃を受け、即『空中キャンプ』からの世田谷三部作を経て、全アルバムを聞いた。本作に備えて『永遠のフィッシュマンズ』をゆっくり咀嚼しようとしながら読み、再度『Chappie, Don't Cry』から全アルバムをリピートする日々を送って本作の初日舞台挨拶に臨んだ。
分かりやすくて分かりにくく、小さくて大きい曖昧で矛盾を孕んだ誰かの日常を弱々しく力強く歌ってきたフィッシュマンズとは何かという命題。新旧含めたバンドメンバー、スタッフ、ミュージシャンが、フィッシュマンズと彼らの音楽と不在の中心としての佐藤伸治について懐かしそうに楽しそうに悲しそうに複雑な感情を露わにしながら証言し、その命題に向き合おうとする。そんな彼らの言葉の断片が当時のオフショットやインタビュー、ライブ映像等の青春群像劇とも言えるような記録映像と交錯する。170分の長尺だが、言葉と映像と時間をストレスなくまとめ上げた構成の妙で、気がつくとエンドロールを迎えている。そして、最後に実感したのは悲しいほどの呆気なさと人間のちっぽけさだった。
佐藤伸治の死という抗いようのない現実に向き合った上で彼らの作った音楽を鳴らし続けることを選択した欣ちゃんら今のフィッシュマンズの闘魂2019でのライブパフォーマンスには、その音楽がまだ見ぬ心震わすあの人に届く可能性があるという希望よりも、やはり死を超越できない圧倒的な現実を前にしたちっぽけな人間に対する絶望感を感じてしまった。そんなちっぽけさは"IN THE FLIGHT"の「あと10年たったら何でできそうな気がするって、でもやっぱりそんなの嘘さ、やっぱり何もできない」という歌詞にも通じるように思うし、晩年の佐藤伸治は特にそのことに自覚的だったのかもしれない。この希望を孕んだ絶望を永遠に繰り返す退屈な日常を肯定するのがフィッシュマンズだ。まだこの映画に対する自分のスタンスが分からないが、これからの人生もフィッシュマンズと共にありたい。今日も脳内でフィッシュマンズの音楽が鳴り響いている。