歩行と思索
普段は移動に自転車などを使用するが、「自分と向き合う時間が足りていない」と思うときは、徒歩を選ぶ。
その時、昔学校の教科書で読んだある一節を思い出す。確か、”歩くと景色がゆっくり見れるので、思考が深まる”といった内容であったように思う。
気になり、無性に原文が見たくなった。だが簡単な検索ではヒットしない。可能性のある書籍や古本を何冊か購入し、遂に見つけた!著者は黒井千冶さん、ニュアンスの似た文章をいくつか書かれていることがより探索を困難にさせた。それは、とある雑誌のコラム集にあった。下記引用。
歩行・走行・飛行と利用する速度が大きくなるにつれ、人間の生活はそのおかげでより豊かにより多様に、より幸せになるかに思われるが果たしてそうか。(中略)
具体的にいえば、町といったような多面で複雑な構造をもった対象は、歩いているのでなければ見落としてしまう細かな表情をあまりに多く備えている。看板の下に書かれた小さな文字、道に出来た穴ぼこや、お地蔵さんに備えられている生米や花——。(中略)
人間の目はいつでも同じではなく、自動車に乗れば自動車の目になり、自転車に乗れば自転車の目になるもののようである。(中略)
知覚だけにとどまらず、人間のその他の感覚や知能の働きも、移動の速度があまりに大きくなると十分に活躍できなくなるのではなかろうか。(中略)
やはり、思索には歩行が最もふさわしい。歩行の中には、走行にも飛行にもない、純粋に人間の肉体の営みのみが放つどこか湿った匂いがある。片足ずつ地面をたたいていくリズムがある。なによりも持続を必要とする思索にとってそれらはただ好ましいだけではなく、不可欠でもあるのだろう。
‐足と目と頭, 黒井千冶 (現代思想 6(4)より)
当時の教科書の製作者も、よくこんなマニアックなところから文章を見つけてきたものだ。
上記の文章では座った状態との比較については言及されていないが、座って考えて煮詰まったものが歩行で上手く解消でき、自転車等の速度が大きいものは適さない、ということのように思う(図1)。