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いつも母は、「〜しないように」と言った。私が欲しかったのはそんな言葉じゃなかった。

この記事で家族のことは散々書いているのだけど、最近また心にモヤモヤがたまる出来事があった。昇華するために残しておきたい。

いきなり家族の話から逸れるけれど、私は仕事の目標設定(特に定性的なもの)のとき、必ずと言ってよいほど「〜ないようにする」という言葉遣いになってしまう。

「報告に抜け漏れがないようにする」「提案の際、相手の言葉を遮らないようにする」そんな感じ。

新卒で入社して、社会人最初にぶち当たった壁はまさにこれだった。

目標付きで日報を送ると、「日榮さん(旧姓)は常に否定系の目標しか立てられないよね」と大嫌いだったマネージャーに指摘された。大嫌いだけど、指摘はその通りだった。

私だって普通に、肯定系で目標が立てたかった。だけど、いつも最初に自分の口から出てくるのは否定系だった。

すべてを家庭環境のせいにするつもりはないけれど、子供時代に親から受ける影響はかなり大きいと思っている。

私の母は昔から「〜しないように」という否定系からはいるタイプだった。

クラス委員に率先して立候補するタイプだった私には、「あんまり目立ちすぎないようにしなさいよ」

地元の友達と仲良くすれば「あんな子たちとあんまりつるまないようにしなさい」

志望校を高く掲げれば「あんまり無理しないでおきなさい」

何年もかけて、何重にも積み重ねられた「〜しないように」という言葉は、呪いのように私の脳裏にこびりついている。

当時から「愛着障害」なんていういう言葉も知っていたし、自分と家族の関係を俯瞰している節があったから「とにかくここから一刻も早く抜け出して別の依存先を探さないといけない」という危機感は人一倍大きかった。

奨学金とアルバイトの掛け合わせで、なんとか自力で掴んだ大学3年生からの一人暮らし。

やっと親元を離れることができて、それ以降はほとんど実家に寄り付かなくなったおかげで徐々に呪いは溶けてきた。

だけど、それでも、母からふいにかけられる「あっくん(旦那さんの名前)に迷惑かけないようにね」と言ったさりげない言葉たちは、簡単に私を過去に連れ戻す。

母なりに心配してくれていることはわかる。だけど、その表出方法では全くわたしには響かないのだ。むしろ不快だ。

だから私もこの年末に帰った時に、「そういう声かけでは私は嬉しくならない」「どうせなら肯定系で声かけしてほしい」と伝えてみた。

指摘されると母は、「あ〜また言っちゃった。そんなつもりないのに〜。許して〜〜><」といった調子だった。許すとか許さないの話ではないのに。多分、何も届いていない。もしくは届いているけど受け取り拒否されている。残りの人生の方が短い彼女にとって、変化するくらいなら突き通した方が楽なのかもしれない。

そんなことがあった年末を経て、先日。

2週間に1回くらいは母から近況報告やらのLINEがくるのでその返事をしていた。(私はこういう親族からの求めてもいない報告LINEが一番嫌いだけど、多分母は一人だから話し相手が欲しいのだと思う。残されたギリギリの優しさを振り絞っていつもメッセージを打つ。)

最近の仕事について聞かれたので、母にもわかるように説明していた時だ。母からまた呪いの言葉がかけられた。

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「あまり手を広げすぎて、身動き出来なくならない程度にね笑」
「何でこんなのがわからないのってならないようにね笑」

どうしてだろう。

なぜ「がんばってね」と言えないのだろうか。
なぜ「たくさん挑戦して、疲れたら休みなよ」と言い換えられないのだろうか。
なぜ「教えるのって難しいよね。またどんな風に伝えたか教えてね」と終われないのだろうか。
だったらなぜ連絡したのか。
せめてその最後のかわいい「Good Luck!」のスタンプだけで終わってくれたらよかったのに。

なぜ、なぜ、なぜ、が積もってゆく。

暴力的で言葉の通じない父はカウントしないとして、母は、少しは理解しあえる家族なはずなのに。

そうやって期待するたび、私は絶望する。

期待なんてしなきゃいいのに、またうっすらと期待を持ってしまった。

小さい頃、100点を取ったら褒められると期待した。だけど返ってきた言葉は「100ある知識で100点とったからって、1000ある知識で100点とった人にはかなわないよ。」というものだった。

学年1位をとり続けていた中学生時代、誇らしいと思ってくれると期待した。だけど、両親は「この地域の中学で一番ていったってねえ、、」というものだった。

阪大に入ったし、少しは褒められると期待した。だけど親族からかけられたのは「ゆきちゃん昔東大って言ってたのに笑」「まあ外国語学部かぁ」というものだった。

期待するたび、裏切られ、「次こそはもっとがんばれば」と走ったところで、そこに欲しかった言葉をかけてくれる未来はないとやっと気づいた。

もっとがんばってほしい、という願いからくる言葉なのかもしれないし、もっと上に行けるという期待なのかもしれない。それも1つの愛だったのかもしれない。

だけど、わたしが欲しかったのは「がんばったね」というその一言だったし、そこに偏差値や学年順位や、世間体なんていう平均的な「がんばりの基準」なんていらなかった。比較も、「〜しないように」といいう注意もいらなくて、ただ私だけを見て欲しかった。それだけでよかった。

そうやって私だけをみてまっすぐに声をかけてくれるのが、それこそが愛だと、私は思ってる。

ということでこのnoteを書いてたらやっと既読スルーしてたLINEに何か返す気力が湧いてきたので、懲りずに「私はその言葉じゃうれしくないし、ほしい言葉しか受け取りません」の姿勢を示してみた。

きっと母は変わらない。どうせ謝ってくるけど、本質的には変われない。人間だし。だけど、私は懲りずに受け取らない姿勢を貫くことをここに誓う。

愛は、まっすぐに届けないと、変な形になる。
変な形の愛を「受け取ろう」とこちらが変形すると、私の愛の形も歪んでしまう。もしくは私の輪郭が歪んでしまう。

私はいろんな経験でそれを学んだから。

私はまっすぐに人に愛を届けるから、あなたもいつかまっすぐな愛を私に届けて、と願いを込めて。

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