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愛に飢えていた私が母になった。今度は、愛情過多が不安になった。

何度もnoteで書いてきたけれど、私は家族との関係性構築が幼い頃からうまくいかなかった。

冷静になって考えると、構造はとてもシンプルで、「愛情とかそういうの重い、と思う母」と「どんな瞬間も愛されていることを実感したい娘」という需要と供給のアンバランスさがすべての要因だったのだと思う。

母は、私が小さかった頃、夜一緒に寝ることを嫌がった。それは、本当にただただ「一人で寝た方がゆっくり寝られるから」だった。大人になってから再度この話題を確認した時も、母はあっけらかんと「え、だって引っ付いたら暑いやん」と言った。

だけど、当時の私にしてみれば「きっと私のことが鬱陶しいんだ。そんなに好きじゃないからひっつきたくないんだ。」と感じてしまった。(認知の歪みがすごいと思う。この認知特性はもっと前に形成されたのかも)

性教育の団体を始めて、「バウンダリー」という考え方を知った今は、母の体のバウンダリーと私のバウンダリーの捉え方が違っていただけで、それは愛情とは無関係だとわかる。だけど、当時のわたしはそれを知らなかったし、知っていたとしても、「それでも体温が伝わる距離で一緒に寝たい」と思っていたと思う。

これはあくまで一部だけれど、そんな些細な、だけど確実なすれ違いが積み重なった幼少期だった。同じ母に育てられた妹は、特に干渉されないことを好意的に受け取っており、きっとこれは母が悪いとかそういう問題ではない
のだ。ただただ不幸にも、私と母は、絶望的な組み合わせだった。

そんな私は母になって1年が経った。

娘が遊んでいる時、こちらを見た時、何か(まだ明確な言葉は多くないが)発した時、すべての瞬間を安心感(それは私が一番欲しかったもの)で包み込んであげたくて、そのすべてに全力で応えている

保育園の時間も長いので、平日夜と土日だけであれば、正直それができてしまう、という側面もあると思う。1週間ずっと一緒だったらきっと私にはできない。し、だからこそ、そんな自分が怖くて保育園に入れているのかもしれない。

とにかく、自分が得られなかったことで、取り返しのつかないしんどさを感じているからこそ、娘にそれを背負わせたくないという強い想い(いや恐怖に近い)が、過干渉、愛情過多、となって現れてしまっていると最近感じる。

先週から娘が体調を崩して自宅保育が多くなったこともあり、今日保育園から「先生が離れるとすごい声で泣き叫んで、抱っこしないと不安みたいです。いつもの様子とあまりに違うので。。」と連絡が入った。(よほどじゃないと発熱以外でのコールはないそうで、職員室の電話越しにも別の教室にいるはずの娘の鳴き声がうっすら聞こえた)

もちろん体調が本調子じゃないとか、そういうフィジカル的なものがメンタルに影響してる側面もあると思う。

だけど、この電話を受けて真っ先に、愛情過多というキーワードが浮かんだ私は、多分思い当たる節がありすぎるんだと思う。

結局、ご飯以外は泣いて、お昼寝もできないとのことで早めにお迎えに行った。

何が正解かわからないし、娘がどの程度のどんな行動を愛情だと受け取るのか、不足だと感じるのか、今はまだわからない。

愛情過多とか、愛情不足とか、それは片方が決められるものではなくて、与える側と受け取る側双方が決めることだから。

だけど、少なくとも私の母としてのゴールは、物理的に私が側にいなくても、娘が確かな愛情を感じ、安心して自分の人生を歩めるような環境を作ってあげることだから。

明日も悩みながら、葛藤しながら、娘と何度だて向き合おうと思う。

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