今、わたしはとても満足。ママになって変わった「仕事」と「家族」の情熱。
娘が生まれる前、私の脳のほとんどは「仕事」だったように思う。
「こんな世界を作るために、私はこれを成し遂げるんだ!」と鼻息荒く、本業やそれ以外でも昼夜問わず、せっせとMTGを繰り返し、議論し、考え、アウトプットして、いくつスプシを作っただろう。ご飯も睡眠も二の次。なんだかんだ言って、仕事そのものがとても刺激的で、たのしかったんだと思う。
だけど、娘がこの世に生まれてきてくれて、頭の中は、驚くほどに「娘」一色になった。(この状況を嘆くママもいるだろうけれど、私はむしろ喜んでこの状況を受け入れているタイプだというのも、意外だった。)
もちろん、今でも仕事はたぶん好きな方だし、手を抜かないし、誠実な方だとも思う。
だけど、例えばリクルートの時にあったWCM(wil,can,must)シート見たいなものを埋める活力というか、熱量が今は、正直、ない。
仕事で何を成し遂げたいのか?と問われても、今の私は正直うろたえる。
娘とやりたいことや娘にしてあげたいことならいくらでもあるけれど、仕事で「絶対に」こうなりたいとか、これがしたい!というものがまるでない。
あるとすれば、関わる人の中で、昔の私のように「これがしたい!」と活力や熱意のある人をできる限りスムーズに物事が進むよう、サポートしたい、というくらい。
昔は、こういうタイプの人を見て「なんでこんなにサポートしてくれるのだろう」とか、「献身的で自分とは全く違うタイプだ」と感じていたのに、なんだかおもしろい。(営業マンだった当時は、事務系職には絶対向いてないわと思っていたのに、今は半分事務系の仕事もしている。し、案外とても楽しんでやっている)
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だけど、と思う。
もしかすると、これが私の本当に望んでいたことだったのかもしれない。
「こんな世界を作るために、私はこれを成し遂げるんだ!」と鼻息荒く、声高に叫び、変わらない世界にムカついていた当時、私は結局、世界を変えられなかった。それはきっと、向き合っていたのは「世界」ではなく、「自分」だったから。(だからいいとか悪いとか、そういうのではないけれど。)
そして、その安易な「世界を変えたい」想いは、何者でもなく、自信もない自分をカモフラージュするためのものだったかもしれないとすら思う。
都合の良い「世界」という言葉を軽々しく使ってしまって、本当に各方面に申し訳ない。
そして、その「自分」と向き合うと、結局根底にあるのは「ほしかった家族をつくりたい」それだけだった。
世界を変える前に、まずは私にはやるべきことがある。
辛く、思い出したくもない幼少期を、同じ思いを、娘にさせるわけにはいかない。これは私の使命。
目の前にあるこの家族という奇跡を大切にする。毎日丹念に向き合う。家族を構成する3人それぞれの体調、感情、そういったバイオリズムに合わせて毎日をマネジメントしていく。
これって仕事とは別軸だけど、難しさとか大変さとか、そしてやりがいとか、たのしさという部分では似ていたりもする。
何一つ目に見えて他者に評価されるようなことはしていないかもしれないし、何一つ社会に価値提供していないかもしれない。
だけど、そんな社会を構成する3人の人間が、今日も健康で、ご機嫌であること、それはきっと見えないけれど、大事なこと。
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仕事において、好きで得意な「書く」ことをメインに、その次に得意な「整理する」スキルを使った業務を任せてもらえている今はとても充実している。だからこそ、この今の「得意」と「好き」を活かせている状況以上は何も、望んでいない。
「書く」こと一つとっても、例えば、絶対本を出版するぞ!とか、そういう熱量の高い目標はきっといくらでもあるはずなのに、それこそ3年前くらいの私なら望んでいたことだったのに、今は、諦めでも、強がりでもなく、そういう熱い熱量は湧いてこない。
だけど、娘を愛している、それにかける熱量はいくらでも湧いてくる。どうやら私の熱量は今のところとてもバランスが悪いみたいだ。
今、家族3人が健康で、毎日を笑顔で過ごせていること。これで十分すぎる。これを私はずっと、20年近く待ち望んでいた。これが「満足」という感情なんだと思う。