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29歳になった。年々、生きやすくなっていく。

今日は私の誕生日。

娘も同じ11月生まれなので、一昨年や去年はそれどころではなかったのだけど、娘がもうすぐ2歳になる今日は、やっと落ち着いて自分の誕生日が迎えられた気がする。

夫が買ってきてくれたホールケーキのいちごをほぼかっさらっていく娘を横目に、どうかこのまま、ほしいものにまっすぐに、強欲であってほしいと願わずにはいられなかった今日。

✳︎

私は小さい頃からずっと生きづらかった。
一番身近な家族と、どうにもうまくフィットしなくて、いつか別の、自分のほしい家族をつくれるはずだと願うことだけが救いだった。

結果、満たされなかった何かを埋めるように、他者承認を異常に求めて、誰かの理想の私を作り上げ、自分で勝手に期待を背をってしんどくなっては沈み、依存先を常に探して、そのくせすぐ対人関係を築くのが面倒になり。

そんな風に生きづらい20代前半だったように思う。

幸い「仕事」は得意で、やった分はちゃんと評価される環境に身を置けたし、元来のスピード感はPDCAを回すことが求められる資本主義において大いに役立ったのだけど。

なのだけれど、いくら仕事で成果を出しても、満たしたい「何か」は一向に満たされず、次第に周囲が「仕事」に真正面から向き合っているのに、自分だけ、そこじゃない「何か」をずっと探している、そんなズレに気づいた。

どれだけその仕事で良いアウトプットが出せても、本当に驚くほど満たされない。

もちろん、仕事やクライアントに誠実にあることは最低限できているのだけれど、「仕事が好き」という人たちや、そこに時間もお金も精神も費やせる人たちと、どこか圧倒的にズレていることを実感し続ける日々だった。

20代後半になって結婚し、幸いにも子供を授かることができ、無事に出産できた頃、やっと私は満たされることになる。

仕事には絶対に感じられなかった「何か」が、育児において圧倒的に満たされていったのだった。

数値で表せるバリューは出せなくても、毎日が母として圧倒的成長だった。育児になら、時間もお金も精神も、何もかも費やせる。

残念ながら、私は世界をこうしたいとか、我こそがこの課題を解決するぞとか、そんなビジョナリーな資質は本質的には備えていなくて。

だけど、「私は、家族を諦めない」という強い欲望と意思を持ち合わせている。

ここにはブレない芯があるし、「家族」という組織の経営ならよろこんで引き受けたいと思う。

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20代前半の私が、今の私に出会ったら、どこか熱量の足りない、甘ったれたヤツだなと思うだろう。

その通りかもしれない。

かつてほど、燃えるような熱量は持ち合わせていないし、自分にも、周囲にもずいぶん優しくもなった。甘いと言われればそうかもしれない。

でも、そのおかげで、年々私は生きやすくなっていっているし、年々自分の言葉に嘘がなくなってゆき、力みが取れていっている。丸くなるってこういうことかと実感する。

今、私は自分史上で一番自分が好きだし、そしてきっと明日からもそれを更新し続ける。

今日の自分に、花丸を送って、明日を迎えられる自信がある。

何も生み出せていなくても、私は今日も娘の笑顔と安心を全力で守り切った。最後まで娘の気持ちに寄り添い、待って、対話して、彼女の主権を守り切った。

何も世界は変わらなくても、私は今日も夫の健康のためにお弁当を作って、遅くに帰った夫におかえりとあたたかな眼差しと声で迎えた。

それだけで、じゅうぶん。

本当にほしかった家族に、ほしかった母に、私は現在進行形でなれている。

ラスト20代、もっと焦るのかとか、30歳の壁を感じるのかとか思っていたけれど、まったくそんなこともなく。何一つ悔いのない20代だった。歳を重ねていくことが、これからも楽しみであるといいな。



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