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dancefirst
今とは。
今、生きて感じている自我や、目の前で認識している全てに疑問を感じることがある。
この瞬間に死が訪れた場合、時間から解き放たれて、この生きている時間に知覚している「モノ(この場合、概念になるのか)」が全て無くなるのだとしたら、今この認識しているという感覚は一体何なのか。まるで誰かの記憶の中に存在しているようである。
私たちが集合体の中の一部分だったと仮定した場合、存在した(している)という認識も第三者ともいえる、集合体が存在することで、自らを自覚し知覚することができ、記憶というモノが生まれているのではないか。
また、時間を仮に「進む」という捉え方をした時に、ほんの一瞬の時間を私たちは生きているわけだが、前後左右に記憶や自我というモノがないのにも関わらず、なぜこの瞬間を自覚しているのか。
私たちの「今」の周りには死という「虚無」があり、それを点で知覚して感情や考え、時間を認識することができている。
仮に時間が流れているとした場合に、限りなくこの生の時間は0に近く、現在生存すること(意識・自我・記憶)を認識できるのか。
自意識が過去の記憶を認識したり、自覚・知覚したときに「モノ」がようやく、そこにあるが、私たちが虚無にいる場合、その認識自体が無くなるのではないか。
なぜ、私たちがこのストリームの中で自らを自覚していて、存在するということ自体を認識できているのか。果たして、自分たちが「何か」や「時間」という集合体の一部分なのか。この疑問を抱えたまま虚無を迎えた時に答えがあることを願う。
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![青木 優樹](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/9771423/profile_62da44a987543b82b82597e4861be5cb.jpg?width=600&crop=1:1,smart)