純文学 ショートショート#5[猫の旅館]
私は、少し前に、猫のいる旅館へ泊まった。それは京都にあった。可愛い三毛猫が出迎えてくれた。
私の足にすり寄ってきたので、旅館の大将に
「マタタビでも持ってます?」
と聞かれた。
持っていないと答えると、大将は不思議そうな顔をしていた。
*
猫は夜行性なので、うるさくて眠れないかと思ったら、案外静かで、眠れた。
夜眠っていると、
「ダンナァ…、ダンナァ」
と枕元でそう声が聞こえた。低く、蠱惑的な声だった。
目を覚ますと、私と同じ背丈の、八割れの猫がこちらを覗き込んでいた。
「わっ!」
私は驚き飛び起きた。
「そないな大声出すとォ、他の客も目ェ覚ましますえ」
猫は目を細めて言った。
「ば、化け猫っ!」
「そんなん言わんといておくれやっしゃ。わしも、立派な猫どす」
見事な京言葉で話す猫は、正座をして私の枕元に座っていった。
「そんなんはどうでもいいさかい、ダンナ、一杯いかがどす?」
猫は縁側を指差した。そこには座布団が二つ、その間の机には日本酒と杯が置いてあった。
私は夢だと思った。
「まあ、いいよ」
私は猫の誘いに乗ることにした。私たちは縁側へ移動した。
「中秋の名月どすなァ…」
猫は満月を見上げてそう言った。
「そうだな」
「ダンナ、ほれ」
猫は日本酒と杯をこちらに向けた。
私は杯を持つと、猫は日本酒を注いでくれた。
「あ、ありがとう」
「じゃあ、ダンナも」
猫は日本酒を渡してきた。注いでくれ、ということだろうか。
猫も杯を持ったので、私は猫に日本酒を注いだ。
「じゃあ、それ、乾杯」
「乾杯…」
猫と酒を飲むだなんて、変な話である。
猫はぐびっと酒を飲んだ。
「ぷはあ、月見の酒ほど美味いものはあらへん」
猫は言った。
「酒が好きなのか」
「それはもう、好きどすえ」
杯が空になった猫は、自分で日本酒を注いで、またぐびっと飲んだ。
変な猫だ、そう思った。
「ダンナは、独り身どすか」
「突然なんだい」
「いや、最近女房と、うもういってへんのどす。話しかけても、見向きもしいひん」
猫にも事情があるのだなと思った。
「君が何かしたんだろう」
「特に見覚えはあらへんのどすけどなァ…」
「その酒のせいじゃないか?君、普段も飲んでいるんだろう」
「いえいえ。わしは客人としか飲ましまへんで。一人酒、どうも苦手で」
猫はぼりぼり頭を掻いた。
「奥さんと飲まないのか」
「女房は飲まへんのどすえ」
「そうか…」
私は顎に手を当て、暫時考えていたが、何も思い浮かばなかった。
「そういうたら、猫の国とやらに行ってみたんどすえ」
「猫の国…?」
私がそう問いかけると、猫は杯を置いて
「そらもうぎょうさんの猫がいてはった。さすが猫の国や思た」
と言った。
「私も行ってみたい」
私はそう言った。夢の中は、おかしなことをいくらでも言って良いのだなと思った。
「ダンナ、わしもって言うたって、あんた猫とちがうちゃうん。そう簡単には猫の国には行けへんで」
猫は顔をしかめて言った。
「そ、そうか」
私はやっと日本酒に口を付けた。
「まあええわァ。猫の国では、あのおっきな温泉良かったなア」
「猫は水が嫌いじゃないのか」
「猫の国の温泉は一味ちゃうんやわァ。あの温泉やったら、猫誰でも入れる思うで」
「不思議だなあ…」
「ほんまに不思議どすなァ…」
私たちは、満月を見上げた。
「もし、わしの女房に会うたら、よろしゅうと伝えなはれ」
猫は静かに言った。
「私は、君の奥さんに会ったことないよ」
「次期、出会う思うで」
猫は少し寂しそうな顔をして言った。
「分かったよ」
私は猫の奥さんの特徴を聞き出しておけば良かったと、今更思った。
*
目が覚めた。朝になっていた。
縁側を見ると、座布団はしまってあって、日本酒はなかった。
不思議な夢を見たな、と思って伸びをした。
旅館を後にするとき、また三毛猫が足にすり寄ってきた。
通りがかった旅館の大将が
「本当にマタタビ持ってません?」
と聞いてきた。
「持っていませんよ」
そう言うと、また大将は不思議そうな顔をした。
「この子はよその人にあまり寄り付かへんのどすけどなぁ。最近、この子の夫が亡くなったんで、寂しいのかもしれしまへんなあ」
「その夫の猫って、八割れの猫だったりします?」
大将は目を丸くして
「どうして分かったんですか」
と言った。
ああ、そうか、と私は思った。
私はしゃがんで、三毛猫を撫でた。ごろごろ言っている。
「君の夫は、天国…いや、今頃猫の国で温泉にでも入っているよ」
「にゃーん」
三毛猫は私の脇をすり抜けて行った。