《レビュー》 宮脇有紀ソロダンス「光彩陸離」|『ポーズ=イメージの手前で』 文責:宮下寛司
ポーズ=イメージの手前で
文責:宮下寛司
2022年11月12日、成城学園前駅を最寄りとするアトリエ第Q藝術へたどり着いた。線路沿いに佇む庭も備えたアトリエで、庭をわたり入る建物の一階にあるフロアの上手にある大きな窓から、庭と線路沿いの光景がうかがえる。東京・世田谷に独特の閑静な雰囲気を窓越しに借りながら、板張りの柔和ではあるが均質な空間がフロアに広がっている。観客はこの空間に対面して座る。宮脇有紀のソロ公演である『光彩陸離』が始まるのだ。宮脇が上手から登場し板張りの引き戸を締めることで窓越しの光景を失う代わりに、均質な空間が広がる。このようなセッティングは、サイトスペシフィックとも、何もない舞台とも異なる上演空間を可能にしている。木彫によって規定された空間の輪郭はその素材の強さを観客に意識させる。簡素な小道具の配置は、これからの宮脇の踊りのドラマトゥルギーを想定させるには十分ではない。このような空間のセッティングの印象を強調するのには、今回のソロ公演において宮脇が実現させようとしたコンセプト(すなわち彼女のダンスに対するスタンス)を考えるきっかけになるからである
8月24日に宮脇は本公演に先立つワーク・イン・プログレスをこの会場で公開しており、私はそこにも立ち会っている。幼少からのバレエ経験、著名なダンサーによる公演への参加、そして天使館でのソロ公演というキャリアを経ている彼女の踊りはすでに評価を得ていることは間違いない。それゆえここでは、2回の公演を通じて見えてくるような、彼女のダンサーとしての能力だけに留まらない彼女独自のダンスに対するコンセプトを捉えることを試みたい。
ワーク・イン・プログレスで宮脇は、「カラダの木漏れ日を巡る」をテーマにして新作に向けた試みを展開した。彼女はこのテーマにすでに取り組んでおり、オンラインブログであるNote上あるいはYouTube上にその経過を報告していた。「カラダの木漏れ日」とい語で彼女が示したいのは、日常における身体的記憶をダンスとして取り出してみることである。これは日常的身振りをダンスのボキャブラリーとして取り上げることではい。むしろ日常の営みにおいて忘れられてしまうあるいは意識されないような身体的知覚の様態をダンスへともたらすことである。このような様態は確かに日常の生活に根差しているため、特殊な様態ではないものの、ともすれば気づかずにいられることもあることから、決して誰に対しても馴染みの深いものではない。宮脇にとって、普段の身体的知覚において異他的な様態をダンスにおいて実現することが今回の課題なのである。このワーク・イン・プログレスではこうした課題を実現するために、このためにつくられた振付を踊った。日常に潜む知覚の様態をテーマにするために宮脇が行ったのは、具体的な日常動作の身振りを呈示時することでも、日常における物語の枠組みを設定することでもなかった。そうではなく、この上演で顕著にみられたのは、反復である。さらに言えば彼女(あるいは身体が)繰り返し何かを思い出そうとすることの身振りの反復ある。
このワーク・イン・プログレスでは、後の本公演と似た美術セットが設えられていた。床の上にはキャンドルが4箇所に点在し、下手奥には柔らかな生地のマテリアルが垂らされている。これらの美術の配置は均質な空間に対する視線の動きを導いてくれ、そのような視線の空間の中で踊ることを期待させる。宮脇は、このように視線によって象徴化された空間の中でいくつかのシーンを重ねていく。イニシエーションやウォームアップに似た動きから始めてこの空間へと柔らかに入っていく。暗転後、この空間を照らすのはほとんどキャンドルの灯だけとなり、宮脇の身体はこの灯が作るわずかな可視性の中へと現れる。各々のキャンドルへとめがけて屈伸やポーズを繰り返しながらめぐっていく。キャンドルを起点にしたループを構成するムーブメントの中にポーズが現れる。しかしながらそれぞれのポーズは同じものを繰り返しつつも細かな差異も含んで発展していく。ミニマルな電子音が通奏低音となるシーンにおいて、公演や川辺を想起させる環境音が混ざりこんでくる。ここにおいてはじめて彼女の踊りは「日常的なもの」への接近が可能になるが、この環境音を背景とするような光景を呈示するための身振りはみられない。それゆえに音楽あるいは環境音に対して宮脇の踊りは緊張した関係を持つことになる。
この空間構成および宮脇の踊りは、「木漏れ日」を具体的なイメージにすることを目指してはいない。むしろ日常の経験において忘れさられてしまうような異質な知覚の質を探すことそれ自体にあるように思える。そこでは、新たな知覚の質を作り出すことではなく、かつて日常にあった知覚の質を思い出すことが求められる。思い出すということは記憶から取り出すということであり、この記憶はとりわけ身体的なものである。知覚の残滓たる記憶へとどのように辿りなおせるのであろうか、それがとりわけ日頃の意識をすり抜けるならばより困難であるに違いない。宮脇が目指すのは、こうした試みへの困難さそのものである。反復を通じて常に記憶へと遡ろうとするのであるが、記憶を再現することの困難さはポーズやムーブメントの差異となってあらわれる。そのおぼろげな空間の中で、そして具体的なイメージにいたらない反復において、宮脇の踊りを見届ける私たち観客は、「木漏れ日」が私たちの内で近くもあり遠くもあることを感じるのである。
11月の本公演では以上のような空間構成および振付がある程度踏襲されていた。しかしながら上述したように、扉を閉ざすことで宮脇が掲げるコンセプトを実験的に遂行するための空間をより明確に作り出している印象をうけた。彼女自身の身体的記憶や情動を観客と共有するための空間というよりは、そもそもそのような記憶へたどり着くことそれ自体を試みるような抽象的な空間である。しかしながら本公演はこのようなセッティングを前にして、身体的記憶とその想起というテーマを越えた試みがなされていた。すなわち、身体的記憶を思い返すための方法論をより深化させることで得られるようなテーマへとふれていたといえる。
本公演がワーク・イン・プログレスと異なるのは空間やシーンの構成ではなく、踊りそのものである。振付にこの作品の見方を大きく変えるような変更が加えられたり追加されたりしたわけではない。例えば、表情やしなやかにのびる四肢、そして足首を中心とした部位の見せ方に細かい工夫が施されていた。これらのテクニックも正面に対した見せ方だけではなく、ムーブメントの途中におけるふとした緊張においてみられている。宮脇の身体イメージムーブメントに対する明瞭なポーズにおいて与えられているわけではなかった。むしろそれは、ムーブメントの狭間にある静止の一瞬において垣間見られるものである。このような一瞬の印象においてポーズすなわち身体的イメージは固着することなく解体してしまう。別の言い方をすれば、身体はこのような瞬間においてイメージに至る前で留まるのである。このことは、宮脇の踊りが拙速であったり、曖昧であったりすることを意味しない。事態はむしろその逆であり、宮脇の踊りはポーズ=イメージにいたるその手前で踏みとどまりながら踊り続けるのである。彼女の踊りの力強さとは、観客を含めた外へと向けられたものではなく、身体をイメージへと差し出さずに踏みとどまるように内へとむけられたものである。
ポーズ=イメージの手前で踏みとどまるという踊りが、本公演をワーク・イン・プログレスからの決定的な変化を与えている。ワーク・イン・プログレスが、反復によって「木漏れ日」を求めること自体がテーマになっているのであれば、本公演はこの「木漏れ日」がそもそも忘れ去られやすく、ともすれば日常において周縁に置き去りにされるかもしれないこと、すなわち「木漏れ日」が幾分か異他的であることそれ自体を示そうとしている。異他的であること、それは不気味であるとまでは言わなくとも、私たちはそれを親しみやすくわが物のように捉えられるわけではない。こうした異他的な印象は、薄暗闇に浮かぶ身体が示す仰々しいポーズを示せば与えられるわけではない。わが物のようには捉えられないということは、明瞭な輪郭を持つイメージとして理解できないということである。宮脇の踊りにおいてポーズ=イメージは常に解体に向かっていること、そのことが以上の意味での異他的な質を保ち続けるのである。本公演においても反復は用いられていた。しかし反復されたのはポーズそのものではなく、その手前で踏みとどまり続けることである。ワーク・イン・プログレスで用いられた反復という技法の深化によって、こうした踊りのコンセプトへと辿りついたことは予想もできなかったことであり興味深いといえるだろう。
宮脇の『光彩陸離』においてみられるポーズ=イメージに踏みとどまるような内的な力は、観客に対して、身体的イメージを消費するだけに留まらない美的な受容者としての役割を与えることができる。踏みとどまるその瞬間においてどのようなイメージを求めようとしたのか、そのイメージが達成されないのであれば次はどのようなムーブメントへと向かうのかといった観客における内省が繰り返し生じる。このようなイメージの手前へと立ち向かうことで生じる内省の連続は、(ダンサーの身体運動に留まらない)ダンスが作り出す運動のひとつであるといえるだろう。そしてまた、このような観客の内部における運動をドイツの美学者クリストフ・メンケは以下のように述べる。
それは(彼が主体の美的遡行と呼ぶような極めてラディカルな状態のこと)訓練しつつ形成される実践的能力を、曖昧に戯れる力の状態にするために断念するのではなく、訓練しつつ形成される実践的能力そのものを「運動」に、すなわち曖昧な力の戯れに置換するのである。曖昧な力の戯れへの美的遡行は、実践的能力の美的な転換である。それは、実践的能力を曖昧に戯れる力へと変貌させるのである。
彼によれば、芸術が経験される状況において、実践的能力は曖昧な力へと転換されていくような運動が生じている。実践的能力とは、踊りに際して言えば、ポーズ=イメージを具体的に見せるためにダンサーが遂行するスタイルやそれに内包されるテクニックである。我々は通常のダンス経験においては「ダンサーがそれをできるかできないか」という成否によって判断する。しかしながらダンスという芸術においては、この成否を見届けるだけに過ぎない根源的な力への接触が生じる。それが曖昧な力であるが、「曖昧な」を意味するドイツ語は„dunkle“であり、直訳すれば「暗黒」である。この曖昧であり暗黒の力は成否を判断できるような力ではないが、ダンサーが踊ることをやめているわけでもない。実際の踊りを観ていながらも、ここで実現するかもしれないあらゆるダンスの潜在性を感じざるを得ないような力である。あらゆるダンスの見方が可能になる中で、今行われているダンスを反省の内で捉えなおし続けるのである(より厳密にいえば経験の仕方の枠組みそのものを常に変更していくのである)。ダンスが曖昧で暗黒の力を発揮できるのは、実際に踊りつけることで、ダンスそのものが解体されたり捉えなおされたりすることを続けることが可能だからである。曖昧で暗黒の力は無規定で観客の捉え次第の感動をもたらすものではない。観客がおもわぬような方向へとダンスが戯れていくことの衝撃を伴う力であり、観客を震撼させる力である。第Q藝術を舞台にした宮脇のダンスは、日常における記憶から曖昧な=暗黒の力へとそのテーマを深化させていた。この公演で見いだされた「暗黒の力」は、彼女がかつてダンサーとして出演してきた振付家である山崎広太、岩渕貞太、笠井瑞丈らに共通してみられる舞踊美学を想起させる。。それゆえに『光彩陸離』は彼女の踊りのプロセスの一つの到達点として位置づけられるだろう。
具体的でもありながら、そのセッティングの抽象性は、彼女の踊りそのものを見届けるための実験場としてよく機能していてように思える。一方で2023年1月以降2023年2月にいたるまで参加していたwhenever wherever festival 2023ではむしろサイトスペシフィックな環境で、宮脇は踊っていた。今後は固有の歴史を背負う場所で踊ることがテーマになるかもしれない。そこでも、彼女が垣間見せていた力が、歴史や背負った場所に対してどのように(美的な遊戯として)働きかけ、変容させることができるのかを期待したい。