幸せの形
(この記事は無料記事です。以前のものを加筆修正したものです)
最近、幸せの形について考える。
僕は最初「自由気ままな生活」に憧れていました。そんなに忙しくなく、ゆとりのある生活とでもいうのでしょうか。猫のような。
ところがやってみて気づいたのは、ゆとりがあるというのは飲食店でいうと誰にも相手にされていない状態のことであり、忙しくないのというのはお客さんがいない状態。
誰からも見向きもされないというのは自由気ままであっても無味無臭の、空っぽなのだ。
飲食店というのは、現場でたくさんのお客様に評価され認めてもらうことが正義でもあり、幸せの一つの形でもあり、喜びでもある。
少なくとも僕は人付き合いが苦手な割に自分のやってることを評価して欲しいというかまってちゃんなのでそういう「わかって!」という気持ちがより強い。
基本的に僕らはお店を出すときに
①遠くて使いにくいお店
②近くて使いやすいお店
の二択を迫られる。
それぞれにいいところ悪いところがあって、①は不便であることがフィルターになるので、隠れ家のように静かな”質”の良い運営ができるうえに、家賃が安いのがいいところ。②は人目につきやすいから見つかりやすく売り上げを立てやすい(集客しやすい)というのがいいところです。
もちろんそれぞれにデメリットもあって、一方は行きにくい(集客しにくい)っていうところだし、一方はお客様を選べないというところだったりする。もっと細かくあるけれど。
デメリットが不幸せに繋がるならば、それは改善することができる。
努力次第で見つかりやすいお店でも治安のいい店にすることができるし、遠い場所の店でもわざわざ行きたいと思わせられることができる可能性がある。
これは例外なく、頑張れば達成できる。でも頑張ることをやめてしまった瞬間にお客さんがどんどん離れていってそのお店の夢はそこで終わりになってしまいます。
治安の悪い店も行きにくいお店も、お客さんが離れていく。お客さんが来ないと家賃が払えなくなる。家賃と人件費が飲食店最大の出費。
とはいえ、なんとか運営していこう!とお店と一緒に悩むのは大変だけれど、これはこれで案外幸せだったりする。
僕も経験がありますが大変な時期やがむしゃらに突き進む時期というのはすごい楽しいし、それこそが醍醐味では?と(振り返ると)思えたりもする。
悩むことは幸せの形のひとつです。
僕にとっては
「どうやったら評価されるのかを頑張って考える」
のが幸せだと言えるようです。
一番最初の「自由気ままに」は評価されなくていいから頑張ることなくのびのび生きるとような意味なので、最初と今では「全く逆」のことに魅力を感じている。不思議なものです。
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ここで話を少し戻して。
①と②に少し条件をつける。
このふたつの例で家賃がかからない、もしくはとっても安いとしたらどうでしょうか。
②は、とても良い場所にあるのに家賃が安いという場合。例えば自分のおばあちゃんが持ってる物件で家賃が無料とか。
家賃はかからないから稼ぐ必要がないのだけどお客さんはたくさんくるからモチベーションは高い状態だろうと想像する。(スタッフに限ってはそうではなかったりする。働かないで時給をもらえればいい、という人間もいるので)
基本的に飲食業は接客業でもあるので「喜ばせぐせ」のある人がお店をやっていることが多く、どうやったらお客さんが喜ぶのかを模索するのが楽しかったりするのでお客さんが来ているうちはお店自体はどんどん良くなったりします。
ところが、①の場合は遠くて不便なところで、家賃がかからないとします。
例えば郊外の自分の自宅の一階を改装してやっている場合などですね。
本当に申し訳ないことを言うのですが「持ち物件でお店をやっている人」のお店で格好いいお店に出会ったことがありません。血気がないのです。
格好いいと言うのは”ヒリヒリしている”とか”異常に美意識が高い”とかそういう状態のことです。
どうやらつまり、僕が最初に思い描いた幸せの形である、自由で気ままであることはそれとは逆のようです。
家賃がかからないから経営はそれほど大変ではないという状態だといえる。安定した暮らしのようにも見える。これこそが「自由気まま」なのではないか。
でも、果たして”もっといいお店にしよう”というモチベーションはそこに生まれるだろうか。
遠くて不便なのでお客さんは少ない。それでも家賃がかからないのでなんとかやっていける。これって果たして本当に幸せ?
なんとか生活可能だけど、誰からも必要とされていない状態。そしてそれに気付けない(上手くいっていると脳が誤解するから)状態というのは果たして幸せなのか。家賃がかからないから生活はなんとかなっているし、お客さんが少なくても平気だよ、というのは幸せなのでしょうか。
「飲食店を作る」という動機は一体なんだったのだろうと想像してみる。
誰からも必要とされずとにかく生きていければいいのであれば”実家でニート”でいいのではないでしょうか。
もし、自分に「家賃ゼロの僻地の物件」の話がきたらどうするだろうかと考えます。きっとそこでお店をやることはないだろうな、と思う。誰からも必要とされずお客さんもこない。一人で孤独と戦う。きっと途中で戦うことを忘れ毎日スマホを眺めたりしながら1日を送る。
店の掃除をすればお客様が絶対に来てくれる、新しいメニューを作れば常連さんが喜んでくれるはずだ、新しい備品を買い揃えたらお店も喜ぶよな、とかそういうものを全て放棄してしまうのではないか。
だって「危機感」がないもの。
この危機感がないから、持ち家のお店はどこかシラけた感じがしてしまうのだ。応援しなくていいやって思ってしまうから。
僕にとっての幸せは今のところ「どうやったら評価されるのかを頑張って考え悩む」です。そしてたくさんの人に賛同してもらうこと。幸せの形はそれぞれだから違う人もいるでしょう。 とはいえ僕の中では「負荷が必要」なのだ。
形は変わるかもしれないし、答えはないけど今はその道を行く。
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