天秤の上の化け物
降りれない天秤の上にいるような気分である。俺がいない方の、もう片方の皿には色々なものが乗る。例えば友人、例えば全く関係ない名前も知らないような人、例えば他人の文章。
俺は昔から劣等感に苛まれていたけれど、それはおそらく他の人より早く天秤に乗ってしまったからだろうと思う。それ以降自分の快不快は全て他人との比較でしか成り立たなくなってしまった。あぁ俺の方が凄くてうれしいな、あぁ俺の方が強くてうれしいな、あぁ俺の方が下手で悲しいな、あぁ俺の方がダメで悲しいな、それだけ。物差しがないと喜ぶこともできなくなってしまった。半額のお惣菜を買えた時の喜びだって、多分定価でお惣菜を買った人を心の何処かで見下していて、そして喜んでいるような気がしてならない。
俺は本当に人を見下す人が嫌いで、そして誰よりも自分が内側で他人を見下していることに敏感だった。俺が嫉妬の化け物になったのは、理由もなく他人を見下し続けていたからなんだなと、化け物に成り下がった脳でようやくわかった頃には村人にショットガンを突きつけられていた。ゴメン、オデ、ワルイコトジデ。その後、事実上の絶交という引き金を時たま引かれたりした。
人に優しい人を見ると、あまりにも人を物質的に扱っていて怖くなったりする。見上げてもいないし、見下してもいない。天秤に乗せもしない。地面の砂埃。人も砂も変わらず、その人にとっては同じように物質で、砂を撫でるように人に優しくする。多分人に優しい人は、人の名前なんて知らない。
人に不必要に厳しい人は普通に嫌い。頭悪いわけ?無駄に人に当たり散らすなよ。病院行ってないん?
必要に厳しい人は、多分俺の名前を知っている。なぜなら必要じゃないなら適当に優しくしておくだけお得だから。厳しい行動をとる理由があり、大抵はこっちを慮った行動である。ただ機嫌が悪く無駄に人に厳しくする大人なのに自分で自分のコントロールも出来んみたいなカスとは違う。
ちょっとズレた。結局主体的な幸せを謳歌する方法を忘れてしまったこのバケモノは、果たしてちゃんと生きていけるのだろうか。俺は自分や他人に長期的な期待をする事が出来なくなっているので、俺は自分の人生に対して他人事である。何かダラダラつまんない絵描いて、43ぐらいで実家のベッドの上で生活習慣病で死ぬだろ。