鬱でアル中の父親、睡眠薬無いと寝れない母親、俺。

普通の人間でいるために努力が必要な人間は少なくない。あなたが普通の人間だと思っている人の多分半分ぐらいは、普通の人間で居るために部屋で泣いたり、鬱憤の掃き溜めを作ったり、外の自分のロールプレイを行っている。あなたが思うほど人が皆ご機嫌に生きてるわけじゃない。このあなたという二人称名詞は、自分に向けて吐くのが怖い言葉を他人に投げつけただけの話だ。

そういった人間の家庭は、得てして真っ直ぐな構造をしていない。会話の端に家庭の歪さが出る。俺もそうである。需要こそ全くないが、精神疾患特有の自己開示で変に面白くもない家族トークをして現実で失敗しないために、ここに自分の家庭の話を供給することとする。

現在の我が家は、ADHDとアル中と鬱の父親とASD傾向のある母親とかわいい一匹の猫(後、先代の亡くなった猫)から構成される。単語と病名だけで聞くとおぉっとと思うかもしれないが現実そこまで歪んだ家ではない。現在は安定して、基本的には「普通の家庭」として目に映るそのイメージと大差はない。どこの家庭だって問題を抱えている。言語化が誇大広告のように物事を重大に見せるだけで、実際はあまり大したことではない。

とはいえそれは今の話である。過去に家庭が終わりかけたことだって少なくはないし、数ヶ月程度ではあるが父親がアルコール中毒で精神病院に入院し、その間ガチ母子家庭をやっていたことも一応ある。俺はこれをシングルマザー体験パックと呼んでネタにしてはいるが、あまりウケた事はない。恐らく自分自身でも笑える出来事にしきれていないんだろうと思う。事実その時期のことを俺はほぼ忘れている。三ヶ月とはいえこんなに覚えちゃいないもんなんだろうか。始まりも終わりも覚えていない。母親が俺にひたすら父親の愚痴を吐いたり、精神病院とずーーっと長時間半ギレで電話をしていたことはなんとなく覚えている。電話が終わって夕食になった時、母親が作ってテーブルに置いた野菜炒めは冷めていた。母親の愚痴をそうだねそうだねと聞きながら生ぬるくなった野菜炒めを食べた事まではちょっと覚えている。

その時期数回、母親の機嫌を取るために「俺は別に自分の苗字が変わっても気にしないよ」と言った事があった。ホントぉ?と母親は笑っていた。機嫌が取れて良かったなぁ、と自分で自分を蔑ろにしたことに気が付かないまま嬉しく思った。

その頃、俺がニコニコ楽しそうにしてれば少なくともその間だけは家族は崩壊しないとわかってから俺は少し陽気になったように思う。学校や塾で問題を起こしたら家族が分解するかもしれない、とひたすら気配りとジョークを振り回して、人に笑ってもらおうとするだけの人間になっていた。この時期に、人と近そうだけど近づかせはしない、みたいな距離感を保つコミュニケーションが成立していったのかもしれない。

シングルマザー体験期間に5、6回ほど俺は父親の入院している精神病院に行ったことがある。そこへは1時間半の電車と、30分に1本のバスが必要だった。海が大分近くて、夕方になると西日でギラギラと茜色に輝いた。病人の服を着た父親が俺に綺麗だよね、と言ったので、俺はなんとなくそうだね、と言ってみた。当時俺はその父親の子供だという感覚がなかった。
貴重な休日をわざわざ入院している父親の様子を見に行くためだけに使うのは当時の自分には不服であり、タイパの悪さがあまり好きではなかった。なので当時父親には家にいないのに少し鬱陶しいという奇妙な感情を抱いていた事を覚えている。

これは俺が父親よりタイパを優先するイカれサイコ野郎だった訳では無い。父親は乳児期以降の俺の育児にあまり関わらなかったからである。(別に乳児期もそんなにちゃんとかかわっていたのかは定かではない。俺が内臓炎で40度の熱を出し比喩抜きでちゃんと心停止の可能性があるレベルで生死の境を彷徨っていた時にバンドのライブを見に行って良いか母親に聞いて母親を無事ブチギレさせた過去がある。父親にとってわが子の命はデカい音の波以下なのだ。)
アル中と会社での激務の中8時までに帰ってくることが稀だった父親は、帰ってくるところと朝食でしか出会わなかった。土日には何とか普通の父親をやろうと俺にキャッチボールの提案をしたが、ADHDとASDのクォーターとしての頭角を現し始めていた上にコミュニケーションを伴う運動全般が嫌いだった俺は食卓と玄関ぐらいでしかほぼ会うことのない家が一緒の他人とのキャッチボールに乗り気ではなく、数回でグローブと手のサイズの力関係が変化したのでやめてしまった。

そういう感じだったので幼児期から小6頃まで俺はほぼ母親の下で育った。母親が俺を幼稚園に送り迎えし、母親が俺の預かり保育を受け取りに来た。俺は預かり保育の一番最後ギリギリまで幼稚園にいて、日が暮れた後は基本俺一人だった。一人また一人と友達の父親母親が迎えに来て、先生に元気よくさようならを言って帰っていく。園児たちの脳内に少なからずあったお迎えレースで、俺は最低保証のような扱いを受けていた。園児が誰一人いなくなった夕闇の中で俺は泣きわめくでもなく遊んでいた。多分あの頃のせいで俺は孤独に変な耐性がついた。俺はその時期、夏は日が暮れるのが遅くて、冬は日が暮れるのが早いことを自動で学んだ。夏は運が良ければ帰り道で沈む夕日を見れる時間に帰れる時もあった。

小学校に入ると今度は学童で孤独に夕闇を迎えることになった。学童の帰り、おやつをたっぷりおかわりして孤独感と満腹感で満たされた俺を自転車のガキ用シートに乗せて母親は仕事の愚痴を言っていた。俺はそうだねと言っていた。俺の帰りは小学校教員の帰宅とはちあうぐらいには遅かった。暫くすると中学受験の波に飲み込まれ始めたが、その荒波を地頭だけでやり過ごした。俺は両親から色々な性格のデバフを貰ってはいたが、頭だけはその時期変に良かった。誰も勉強していなかったというのもあるが、塾で1年間俺はトップを張り、そこからは丁寧に右肩下がりを記録した。

もしかしたらその時期の俺は母親の言いなりだったのかもしれない。中学受験も母親に塾に入る事を勧められたことがきっかけだった。母親は別に俺を支配したかったわけではなかったし、俺も母親の言う事に従いはしたが自分の意志が無かったわけではない。塾に入ると言われたが探すのが面倒だったので最初の塾に入ると言い、母親はそれを尊重した。そこは中学受験の塾だった。だから中学受験をした。中学受験は父親の財力と母親の狂気によって成立すると言われるけれど、その時の我が家は母親の財力と母親の狂気だった。母親は朝8:30に家を出て夜9:00に家に帰ってくる俺と同じぐらいのスケジュールで、パートで働いていた。パートと言っても資格がいるタイプの職業なので、所謂バリキャリの類だった。
その頃から母親は睡眠薬を飲まないと眠れなくなったのかもしれない。俺への期待と愛が、母親を仕事の狂人にした。

とはいえ俺はナイーブさと面の皮の厚さを兼ね備えたかなりキショいガキとしてすくすく育ち、割と楽しく友達とドッチボールをしたり先生と遊んだりしていた。嘘だと思うかもしれないが俺は小学校までは陽キャに近い位置にいた。
この頃から俺は人にすり寄るのが他人より少し上手かった。俺のために身も骨も灰にして働く母親の期限を損ねるという行為は、当時の自分には神に唾を吐くような行為に思えた。母親は正しいことを言う人だった。自分より立場が上の人間の正論には頷かなければならなかった。俺はその過程で自分を折れるようになったから、人に擦りよれるようになった。その頃の父親についてはあまり記憶がない。鬱が悪化してずっと部屋に篭っていたような気もする。

中学に入るまで、俺は父親を我が家の汚点なのだと思っていた。精神病院での治療が完治しないまま家に追い返され、風呂に入る力さえも失ってアルコール依存を抑える強烈な効能の薬を飲んで鬱に苦しみながら生きる父親を、俺は家の汚点だと本気で思っている時期があった。あの頃の俺に言ってあげたい。お前だよ汚点は。母親がヒソヒソと俺に囁いた、家族の話はあまり友達にしない方が良いという言葉を俺は拡大解釈し、父親があんなだと知られたら俺の人生は終わるんだ、と思っていた。最近同じ塾の友達が学校の友達を家に招き入れて一緒に遊ぶ、という文化の話をしていて目から鱗だった。そうだ。そう言えば小学校の頃みんなそれをしていた。我が家は学校からかなり近かったけど、幼馴染でさえ我が家に招き入れたことは数えるほどしかない。父親はいつだって散らかった彼自身の部屋にうずくまるようにして世界に怯えるようにブランケットを被って寝ていた。その部屋のドアを閉めて、俺と母親は塾の成績の話をしていた。文章にすると重ったよりも歪んでいることに書いている今気がついた。ともかく、我が家には父親と言う問題があったので、友達を招き入れるような真似はできなかった。一回、なんでお友達呼んじゃいけないの、と母親に聞いた。だってお父さんいるじゃん。母親はそう言った。羨ましかった。他の人が当然のように持っていた父親も母親も健康で二人揃ってる家庭が。母親に言ったら機嫌を損ねるに決まっているし、その発言は俺のために必死に努力している家族を根底から否定することになると頭で分かっていたから言わなかったけど。

ついぞ幼馴染以外でどんなに親しい人も俺の家で一緒に遊んだ人は居なかった。俺は部屋で1人、マリオカートやスプラトゥーンをしていた。友達と隣でゲームで遊ぶ、という行為がキラキラして見えて、羨ましかった。母親はゲームが好きだったけれど、中学受験になってからは睡眠薬を飲んで寝て起きたら働いて俺の成績の話をしてを繰り返していた。歪んだ家族の話だな、と今になって思う。当時の俺には普通のことだった。

塾の友達がその話をしていた時にふと思い出したのだ。どうして自分が家族を他人だと思うようになったのかを。俺は家族という括りがピンときていない。DNAに関係性があるだけの他人じゃないか、と思う。多分その原因はものごころがつく幼稚園から小学校までの期間をほぼ家族との親密な触れ合いなく学童や預かり保育で過ごしたからなんだろう。

俺が気が付かない間に頑張って耐えていた寂しさは、俺の根っこにヒビを入れてしまったらしい。でもそれは父親や母親のせいでは断じてない。母親も父親も、俺のことを愛している。こればっかりは胸を張って言える。歪んでいたけれど、母親も父親も俺のために働いて、俺のために鬱と戦っていた。それが少しズレちゃっただけの事だった。俺にそれについて何か言う資格は全くない。全部必要だったんだ。今の俺が、両親の下で生まれうる全ての俺の人生の可能性の中で最上のものだと胸を張って言える。父親は自殺してもおかしくなかったし母親は過労死してもおかしくなかった。何も壊れなかったのは奇跡だ。俺が少し変になったことぐらい笑い話だ。

コロナ禍を境に父親の仕事がリモートメインになって、だいぶ家庭環境は改善に近づいた。とはいえ別に解決した訳では無いし、この歪みは決して過去の話ではない。父親のアルコール中毒も全然治ってはいないし、未だに母親は睡眠薬を飲んでいる。

父親は未だに深夜2時にアルコールを買うために家を出る。わかっている。父親だってただ酒が飲みたいわけじゃない。父親の部屋に、アルコール中毒から回復へと向かったある人の自省的なエッセイに付箋が付いているのを見たことがある。酔いが冷めたらうちに帰ろうという本だ。その本を書いた一年後、その人は腎臓がんで死んだらしい。前俺が未成年飲酒を嫌う発言をしていたのは、父親が未成年飲酒をしていた人間だからだ。そういった、若い頃から自分の苦しみから逃げる手段として酒を選んだ人間の予後に広がる曇天を、その曇天のシワ寄せがどこに行くのかを、俺は知っている。ACOA、「アルコール依存症者の親を持って成人した人」を指し示す言葉だ。
だから俺は、例えグレーゾーンだとしても、正直成人しても酒は飲みたくない。親子そろって人生をよくわかんない液体にめちゃくちゃにさせるなんて、悪趣味なジョークも良いところだ。

家庭環境は良くなったけれど、我が家の家族3人は全員睡眠薬か向精神薬か何かしらの薬がないとまともな人間を出来ないままだ。俺はグレてる暇も家出してる暇も無かったからしなかったら、俺の心はアダルトチルドレンというものに該当する症状を発症していた。俺の家は、所謂「機能不全家庭」に当たるらしい。家族3人変な薬飲んで頑張って普通に生きてるのに機能不全だってさ、笑えるよねホント。

俺の未来が明るいかといえば恐らくそうでもないだろう。一人になった瞬間爆弾のような鬱に襲われ、人と仲良くなろうとしてはアダルトチルドレン特有の親密なコミュニケーション生成の難しさで空回りし、孤独感と虚無感が全身にへばりついたまま普通の人をやろうとしている人間の予後はやっぱり曇天だ。でもお金はあったから美術を選んだ。結婚や出産みたいなイベントは避けないと不幸が連鎖して良くないし、俺が自分の子供に普通の父親として振る舞うことはきっと出来ないだろう。

食事の後すぐ自分の部屋に戻るようにしていたら母親は俺に「あれは普通の家族ではあんまりやらないやつだから、あれをスタンダードだと思わないようにしてほしい」と言われた。そう言われて初めて、俺は父親と同じことをしていたんだと気がついて、少し血の気が引いた。最近の研究だと鬱と精神疾患は遺伝するらしい。俺の予後は暗い。でも俺には父親と母親の愛がある。やってやるんだ。俺だってやってやるんだ。

正直、自分より苦しい人は探せばいくらでも いるし、自分より大変な家で生きている人もごまんといる。でもそれは俺が感じている、そして感じてきた苦しみを否定する理由には決してなり得ない。

誰一人変な薬がなくても笑って生きられる家族の人たちだって、俺みたいに苦しんでるし、その苦しみは否定されるべきじゃない。苦しみは相対的なものじゃない。

全部の苦しみは抱きしめられて、辛かったよねと言われるべき筈のものなんじゃないのか。誰々のほうが苦しいとかじゃなくて誰も彼も抱きしめられて、苦しみを認められるべきなんじゃないのか。誰かによく頑張ったねと言われるまで苦しみは溶けないし、誰にも頑張ったねと言われなかったせいで歪んでった人間なんていくらでもいるじゃないか。俺達はみんな苦しんで、みんな頑張って、みんな偉い。それじゃダメなのかよ。

え?現在進行系で親の金で美大受験してどうでもいいことでナヨナヨしてるだけのご機嫌な坊っちゃん野郎に語られても全くピンとこないって?へぇ。ホンマにすんません。

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