償うようにして生きる

大学受験というフェーズに突入して、これが明らかに自分の人生の「償い」の部分であると強く実感するようになってきた。

何も手につかない。何もうまくいかない。自制能力を失い怠惰に身を任せ、うまく行った先の妄想ばかりを繰り返して一人人生を賄ってきた人間の末路が18にして訪れた。何一つ自分のことについて真剣に向き合ってこなかった報いを受けている。真剣な、真っ直ぐな人間に追い抜かされる横でへらへらしている。

真っ直ぐ生きている人の言う「全然うまくいかない」と俺の「全然うまくいかない」がどうやら違うものであったらしいことにようやく気がついた。まっすぐ努力している人の上手く行かないが理想と実行結果のズレに対する悩みであるのに対して俺のうまくいかないは理想も実行も手放した俺へのあきらめそのものであるのだ。気が狂いそうだ。

正月にも俺は絵を全く描いていないし、全く勉強もしていない。出来ない。他人の目の下でやれ、と言われないと何も出来ない。一番絵に向いてないのに、何で絵を描いているんだろう?俺も分からない。俺だって描きたくて描いているわけではないし、勉強して大学に入れるならそっちの方が良い。絵は苦しい。途方も無く。真っ暗な道で、自分で明かりを作って徐々に火をともして、ゴールを目指すのが勉学であるとするなら、絵は際限なく広がる明るい草原のようだった。ゴールも無いし、何をすればいいのかも分からない。暗がりに居れば、照らさなければならない。今の俺は、光の下でゴールの方向も辿り着く手段も何も分かっていない状態だった。燈火に火を灯しても意味はないし、歩いてもたどり着きはしない。誰かが教えてくれるのを待っている。実際はたどり着けるのだ。火を灯しても、ひたすら歩いても。全部が怖くて、何も出来ない。合っているのか分からないのかが怖い。何一つとして間違いは無いのに。

唯一明確な燈火がクロッキーなのに、それさえろくに出来ていやしない。病気だ、といえば失礼かもしれないが俺は実際に医者から精神疾患の診断書を持っているので、病気ではある。あんま舐めんな?こちとら伊達に無能やってねぇんだよ。

学校にも課題出せないとか部屋汚いとか時間守れないとかでADHDを名乗ってた人いるけど、ADHDってのはそれ以前にまずそれが出来なすぎて若干浮くんだよ。浮いてないじゃん。君らはさ。(と言うよりは俺が薄まったASD傾向があるせいで学校及び塾で浮いているだけで、ADHDだわ言うて笑い合える状態が普通のADHDですのん?ようわかりませんわ。ホンマ。)

クソみたいな人生だ。償いみたいだ。何か悪いことでもしたみたいな人生だ。初詣に行って、母親から「受験の年だししっかり願掛けする?」と500円玉を渡されたけど、500円程度でしっかり動く神がそこにいるのなら俺の人生はもう少しマシになってたはずだろと思ったので100円で良いと言った。お母さん、俺が無能で、何も返してあげれなくてごめんなさい。奪ってばかりです。時間も。自由も。何もかも。ごめんなさい。何も返してあげれそうにありません。何もできません。ごめんなさい。ごめんなさい。

どうせ償うような人生を生きるなら俺の醜さへの償いより、家族や他人に償いたいよ。

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