諦念、目を閉じれば何も怖くないと思える

受験まであと2週間を切った。画塾もいつもと同じ雰囲気なようでありながら、何処か全員の一挙手一投足の端々に緊張感を帯びつつある。そんな中で俺は一人停滞の一途を辿っていた。

絵が上手くいかない時皆それぞれ現実から逃げる方法があると思うが、(ちなみにここで現実と向き合った人間から合格していく)俺は特に現実逃避に関しては得意中の得意分野で、脳には大量の現実逃避用のコンテンツ群がインストールされており、追い詰められた途端オートで起動する。そして今日の現実逃避における過去回想の中で、美大受験を志した理由を思い出した。

それは普通の受験への諦めだった。学校の自分より何倍も頭が良い大量の人間にわんさか囲まれて、MARCHだなんだと過去問を詰め込んで受験戦争で戦える気がしなくて、俺は逃げた。なんで美大受験に逃げたかと言うと、美大受験をする人間は全員逃げてきた人間だから、ここならまだ勝負になるだろうと思ったからである。今考えると思い上がりも甚だしい事この上ないが、諦めと逃げのコマンド以外使わず生きてきた人間にそういった思慮の深さは存在しない。それがあったら、苦しくてもその場所で戦うことを選ぶだろう。何故なら自分以外の他人もまた同じように思い、しかし諦めることなく闘っているということを理解するまでにさほど時間を必要としないはずだからである。しかし俺がそれを理解し始めるのは高3に入ってからだった。それまで俺は普通に受験している人を皆恐れを知らない屈強な精神の人間だと思っていた。実際は皆が怖いと思っている。ただ、皆俺の様に様々な事柄から理由をつけて逃げていったその先に何があるのかを知っているというだけなのだ。

俺が普通の受験を諦めたのは高1の時で、美大受験をも諦め始めたのは高2の冬頃だった。逃げ場は無かった。家族にさも俺は描きたい絵がありそのために美大受験をしようとしている様に振る舞い続けたのが功を奏し、俺の逃げ場は完全に塞がれていた。四面楚歌、八方塞がり、十六夜の月である。
逃げられない時、人は立ち向かう。俺は逃げられなかったし立ち向かえなかったので、諦めることにした。この頃から俺は少しずつ俺を手放し始めた。
現実デッサンの日々は最悪も良いところだった。俺は絵が上手だね、と言われたかっただけであって、逆パースだね、だとか、黒が位置になってないね、だとか、構図がすっきりしてないね、だとか、逆パースだね、だとか言われるために絵を描いていたわけでは御座いません。俺は絵を描いてチヤホヤされたかっただけで、絵が上手くなりたかったわけじゃありません。俺の絵を踏み台にしつつ隣の人の上手い絵を評価するための加速器にしないでください。絵が上手い人は謙遜しかできなくて嫌だった。実際には違い、絵が上手い人はちゃんとそこまで絵を見れているのだ。テキストの前の日本語だけを目に入れてきたようなバカには、そのアトリエは血の付いていないギロチンの様に見えた。俺だけが殺される。公衆の面前で晒し首にされ、心の中で安心材料にされる。「私も絵下手だけど、あの人よりはまだマシかな」の目を貰いながら絵に吹きかけるフキサチーフの有機溶剤チックな香りは、俺の鼻に敗北の匂いという物を教え続けた。その日々の中で、俺はとっくに美大受験というハリボテの夢をも手放していた。

高3になった時には俺はほぼ「完成」しつつあった。逃げと諦念を極めきった俺の姿はさぞ滑稽に移るだろうが、俺はもう俺を着飾ることも諦めてしまった。その頃俺は俺に何も求められなくなっていた。絵を描いて何か上手くいかなくてもそれを修正することができない。まぁ、俺そういう人間だもんな。間違いを直せなかったからここまで来たわけだし。そもそもこれまで上手い絵なんてかけたことないし、実力そのものだ。どうせ俺の目じゃ講評並んだ時自分が劣ってることなんてわかりゃしないんだろ。そもそも劣っていたとして講評で嗤われるだけだ。今頑張るぐらいなら、諦めて笑われよう。変に手を加えて失敗するぐらいなら諦めて放っておこう。

俺はバカの一つ覚えのようにテキストの日本語を目に入れてきたため絵を描くことに関しては致命的に終わり散らかしていたが、幸運にもそこそこの日本語力が功を奏し自分への言い訳が非常に得意になってきていた。(支離滅裂な文章を綴っておいて日本語力どうこうとか言ってて草と思うかも知れないがこの支離滅裂な言語は俺の中では完結しており、この文章スタイルが俺を言い訳で言いくるめるのに最も適した形である。)
ガゼリ菌のように脳内に生きて届く言い訳は非常に多種多様に及んだ。ある時は論理の飛躍、ある時は過去の事例の引用、時には俺をそそのかす俺という思考の枠組みへのメタ批判にまで及んだ。俺は脳の自分を抑える機能が完全に崩壊しているためそういった口車にウキウキで飛び乗り続けた。乗り続けた結果として俺は現在知らないバス停で現在棒立ちしているわけである。右往左往もしない。諦めて、立って、飢え死ぬのを待っている。

美大受験に関しては失敗だっただろう、とは思う。ここは逃げ場じゃなかった。諦めて高卒で働く選択だって出来た。今まで大学に入ることが当然見たいな世界に区切られて生きてきただけで、社会にその状態で出ることは普通だ。むしろ美大卒より良く思われたりしてな。俺がそう言う。そうかもなぁ、と思う。でも俺はもう逃げない。逃げることを諦めてしまったから。
ここで覚悟を決めて別の選択をするぐらいなら、このまま諦めて美大受験に失敗するほうが楽だ。親不孝などといわれるけれども正直もうここまで来たらどう生きたって親不孝だし。どうせなら決断と判断を必要としない選択を選び続けよう。人生がどうなったって知らない。手放された人生がどう転がろうが、サイコロの目と何ら変わらない。何も考えたくない。何もしたくない。何も決めたくない。決断も挑戦も覚悟ももう懲り懲りです。小さな部屋と布団とWi-Fiとスマホが手に入るなら人生のランクは何でも良いです。後のものは大体諦められるので。絵も。

共テの成績がまぁまぁだったのでとある学部に追加申請を行った。今年の俺の成績で行けるかいけないかギリギリぐらいの去年度合格者最低点だったその学部は美術関係だが絵はほぼ描かないという。その情報を聞いた時一番最初に思ったのは、もしそこだけ通ったとしたら講師への言い訳をしっかり考えておかないとなあ、だった。俺は正直学部なんてどうでもいいんだ。絵なんてどうでもいいんだ。表現なんてどうでもいいんだ。大学なんてどうでもいいんだ。正直将来なんて何でも良いんだ。例え将来が苦しくたって、何としてでも理由をつけて諦めて見せるから。その日のためだけに俺は言葉を磨く。未来いずれ来る他人より劣りきった生活の中で、俺が思考を放棄するために。きっと死にたいほど惨めだろうし、苦しいだろうし、親の顔だって浮かぶ。でも諦めてしまえば良いんだ。全部。

今年の受験はほぼ諦めきっている。受かったら嬉しいよなとは思うけれど、受かるための血の滲む努力はしない。諦めると言うのは決して方向を変えることじゃない。諦めて勉強の道に進むだとか、諦めて家業を継ぐだとか、時には諦めて死ぬなんて言葉もあるけれど、それらは諦めでは決して無い。それはただの決断だ。決断の先にあるものが社会的にマイナスに思われている傾向があるだけで、それらはすべて諦める行為ではない。それは取捨選択の上の決断だ。俺は何も決断しない。受かればそこに行くし、落ちれば浪人するし、母親に高卒で働けと言われたら高卒で働く。言われたらそうする。俺に手綱を手離された俺は、目的の一つもなく自由意志で動き続ける。

諦めると言うのは逃げることではなく逃げるという選択さえしないということだ。

必要な努力を全部手放して起きる事象を全部受け入れてしまえれば、これほど楽な生き方は無い。俺は俺に何も求めない。絵を描く努力も、勉強も、何も。したいことをしたい時にして、したくないことを頑張ってしてきた奴らに追い抜かされてもいい。努力してないんだからしゃあない。したくないことを頑張ってきた奴らに後ろ指をさされ嘲られてもいい。努力してないんだからしゃあない。もう諦めよう。どうせ努力したって勝てなかったやつらさ。これが最適解だ。

実感こそ無いけど数週間後には全部の大学に落ちているらしい。まぁこの努力量なら妥当だよなとも思う。諦めたから努力をしていないのか、努力をしないために諦めたのか、どっちなんだろう。

ご飯を食べたい。お水を飲みたい。眠りたい。それ以外は誰かに突然奪われても本来俺は何も言わないし何も言えない。本来俺にそれ以上のインフラや幸福を求める資格はない。俺は偶然美大受験が選べるほどの恵まれた家庭環境に生まれ、偶然両親に愛され、偶然いくつかのことを55点ぐらいの高くなく少し低い精度でできるだけのゴミだ。全部環境と遺伝子由来。俺が自我を得て、俺が両親の所有財産から俺自身の所有財産になってから人生で得たものは何一つない。強いて言うならプライドと人を見下す思想と悪意と狭量な優越感だけだ。

何もかもを諦めたのかと言われたら嘘になる。絵を描きたくないのかと言われたら嘘になる。でも全部諦めたことにして手放せば絶対に刹那的に楽になれるという執着が消えない。楽をしたいのではなく、何もしたくない。何かするなら、楽をしたい。

布団にくるまって怯えている覚悟さえない。全部を手放して逃げる勇気さえない。
何も考えず、言われたことを実行して、失敗して、意見を聞き流して、また失敗してを繰り返す。

俺が狂っているわけではなく、こういった思考は普通に生きている全員が当然に持っている事項のひとつなのだろうと思う。俺だけが特別ぶろうとしてダサいことだとわかっていながらその苦しみをひけらかしているんだろう。

もう何でもいい。全部何でも良い。分かっていようがいなかろうが納得していようがいなかろうが分かりましたと言うことができるようになればそれでいい。手放せるものをすべて手放して残ったものを抱えてビクビクしながら生きられればそれでいい。

まだ俺は人生にさえピンときていない。何もかもが遅いが、何も怖くはない。どうせ間に合わないとなれば努力する理由は無い。今から絵を描いたってもっと前から描いていた奴らには追いつけやしない、と一年言い続けていたら受験が来た。グロテスクな人間構造の中で無能として横たわっている。あーあ、受験受かりたかったなぁ。幸せになりたいなぁ。



いいなと思ったら応援しよう!