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吹雪百景

雪景色が見たくなった。
場所はどこでもいいから、しんしんと降り積もる雪が見たかった。

私は雪国で生まれ育った。国境の長いトンネルなど抜けずとも、冬になれば家の周りはもれなく銀世界だ。

幼い頃、母はクラブを経営していて、母ひとり子ひとりの家庭に育ったので、夜はいつもひとりだった。冬になり、雪が降り始めると、私は寒いのもお構いなしで居間の小さい方の窓を開けて、黙々と降り続ける雪をただじっと眺めていた。
降ってもどこかへ流れてしまう雨と違い、雪は降ってきたかと思ったら瞬く間に積もり始める。雪が
「ここにいてあげるからね」と言っているように思ったのだろうか、私は降り積もる雪を友達のように感じていた。「おいで、おいで」と心で呟きながら、少しだけ窓の外に顔を出す。

空を見上げると、真っ暗なはずの空が雪あかりでほんのり明るくなっていた。漆黒の闇にウンザリしていた私の心を、雪あかりがどれだけあたためてくれたことだろう。ほの明るい空から白い雪が降ってくる様は、私を束の間違う世界に連れて行ってくれるのだ。明日の朝にはどのくらい積もっているんだろう。ワクワクしながら考える。

そうこうしているうちに眠くなってくる。
冷えた体をストーブで温めて、そしてストーブを消して、居間がある一階から、寝室のある二階に上がる。母の店と居間のある場所との間には、三平米ほどの物置スペース、そして店と物置きスペース、物置きスペースと居住スペースを区切るドアがあるものの一つの建物内だから、酔っ払いと夜の蝶たちのお祭り騒ぎがよく聞こえる。そんな喧騒をよそに、雪がしんしんと降っている世界は不思議でさえあった。

二階に上がり寝室に入ると、小学三〜四年生の子どもにはあまりに不釣り合いなクイーンサイズのベッドに潜り込み、誰に「おやすみなさい」を言うこともなく眠りにつく。

翌朝目が覚めると、「グワィ、グワィ」という音が遠くに聞こえる。近所の大人たちがスコップで雪をかく音だ。母は深夜に仕事を終え、朝方に眠るから、雪かきをするような時間に起きてはこない。どのくらい積もっているのかと、眠気まなこで寝室の窓を開けて外を見ると、大勢の大人がせっせと雪をかいている。そんな中で、うちの前の一角だけ雪がかかれずきれいに残っているのを見て、
「ウチはよその家とは何かが違う」と感じるのだった。

そんなわけで、私にとって雪景色というものは、決して温かい記憶とともに懐かしく思い出される類のものではない。事実、大阪に引っ越してきてから約二十年、雪が積もってバスが途中で来なくなったり、車が立ち往生したりすることがなく、雪かきの労力もいらない都会の冬を快適だと思っている。ひとり寂しく雪あかりの空を見上げた幼少期に戻りたいわけでもない。

なのに、今になって急に、どうしても雪景色が見たくなったのだ。

よく分からないがここに来て、なぜ買ったのかよく分からないカメラを持ち、何のきっかけで好きになったのか分からない写真を撮っている。

ただ分かることは、人が自発的に己の人生を生きようとするとき、苦しくて目を背けていたことに、正面から向き合わなくてはならなくなるということだ。

そう思えるようになったのは、年齢を重ねたから、ではなく、私も少しはいい意味で大人になったからだということにしておこう。


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ことねえりか
貴重な時間を使って最後までお読みいただき、ありがとうございました。