エッセイを書く理由
エッセイ公募に作品を出し、落選することン回。入賞1回。
このへんで一度作品の棚卸でもしてみようかと思い立ち、落選した作品を読み返した。何か他人さまが書いたような文章で、話に納得はできるが、胸に刺さるものがない。執筆している時には心血注いだのに、なぜか行間から作者(私)の想いが伝わってこないのだ。多少文法的に誤りがあったり、係り受けがおかしいとしても、自分が書いた文章なのだから、書いた時の想いはよみがえってくるはずなのに、である。
それから公募の要項を再度見返した。すると、主催者の意図を深読みしすぎて、きっとこういうものを求めているのだろうとか、こういうものを出せば気に入ってもらえるだろうといった具合に「空気を読んで」いたことにきづいた。上司に忖度し、自身の思いはわきに置いて、期待されているであろうものを推し量り、成果を出す世界に嫌気がさして執筆の世界に足を踏み入れたのに、これでは何のために書いているのか分からない。誰よりも自分に刺さらない文章なんて、世に出す意味がない。もしかすると何かすごく勘違いしているんじゃないかと思えてきた。
続いて入賞した作品も読んでみた。やはり落選作品とは全く違う。文章のうまい下手ではなく、書いた当時の想いが行間から伝わってくる。つたない文章ながらも、伝えたいという力が感じられる。エッセイの書き方ではテーマの決め方とか、文法的に正しいかとか、日本語としてどうかとか、作者を知らない第三者が読んで意味が伝わるかを重点的に教わるが、それは最低限必要なことであって、すべてじゃない。入賞作品はやや心情描写過多だが、誰にも忖度はしていない。純粋に伝えたいことを原稿用紙にぶつけているだけだ。
私はこれからも美文は書けないかもしれないけれど、人の顔色をうかがうような文章は書かないでおこう。自身の内にある想い、願いをアウトプットすることがエッセイを書く理由なのだから。