情報としてのトマト・お金で買っているもの
ヒト・モノ・カネ・情報 と言われる。
今や、無料であっても
たくさんの上質な情報が手に入る。
30数年前の、わたしの学生時代と比べれば
月とスッポンどころか
月と冥王星くらいの距離感ではないかと思う。
そして、情報は結構なものが
「無料」で手に入る。
一方で、モノはそうはいかない。
食べ物、服、家、車、筆記用具
コンピュータ、コーヒー、などなど
「登録すれば無料!」な情報は多いが
「登録すれば無料!」なモノは少ない。
つまり、ほとんどのものは
お金を出して手に入れる。
ふと、考えた。
情報は無料なのに、どうして
モノは有料なのか?
それは、モノを実在させるには
コストがかかるから。
原材料の採取、栽培
原材料の加工
流通、管理
石油製品なら石油を掘り出し
原油を運んで精製し
それをまた工場に運んで
ビニールなんかにする。
そのでかいビニールの束を
原材料として買う会社があって
それをまた加工して
袋とか傘とか、商品にする。
それをまた、小売店に運んで
倉庫で管理して…
ちょっと想像しただけでも
「倉庫管理のお仕事・時給〇円」
ということを考えても
明らかにお金がかかっている。
その商品(モノ)を買うのに
お金がかかるのは当然だと思う。
さて。
じゃあ、どうして情報は(多くが)無料なの?
それは、石油や小麦などといった
材料費がいらないから。
そして、トラックで運んだり
倉庫で管理したりする必要もないから。
じゃあ、流通にコストが掛かる
いろんなモノを
お金を掛けずに手に入れる方法ってないの?
全くないわけではない。
たとえば、畑や田んぼで
自分で食べ物を作る。
森林の近くに住んで
木を切って丸太小屋を建てる。
薪ストーブで料理をし、暖を取る。
自分で作った大豆とコメで
味噌を作る。
で、そういったモノを作ると
今度は「物々交換」ができるようになる。
うちの味噌あげるから、
ちょっと薪割ってくれる?
みたいな関係が成り立ってくる。
もちろん、何もかも自給自足で
という二元論の話ではないが、
そういうことをちょっと取り入れると
必要な「お金」は減ってくる。
そこで、次の質問。
必要なお金(出費)が減るということは、
その分を何かで埋めるということ。
その「何か」って、なんだ?
それは「時間」じゃないのかな。
「時間をお金で買う」と、よく言われる。
でも、本当に時間はお金で買えるのか。
子どもたちが小さい時、わたしはよく
前夫に言っていた。
どんなにお金を貯めても、
この時期の子供たちと過ごす時間は
後から買えないよ。
時計というスケールで測る時間は
「お金で買える」かもしれないが、
体験を伴った時間は
お金では絶対に、買えない。
むしろ、人はお金を払ってでも
貴重な体験を伴った時間を買うものだ。
とはいえ、このモダン社会では
お金さまさまが主流である。
かく言う私だって、ガッツリ
お金のお世話になっている。
お金は間違いなく、強力なツールである。
ここで考えたいのは、
そのお金をどう使うかって話。
そこで「情報社会」なんだよね。
もっと言えば
「植民地(搾取)マインド」なんだ。
いきなりだけど、カナダの歴史。
ロッキー山脈と野ッ原の土地に
「開拓民」がやってきた。
「開拓」つまり
森を切り開き大草原を耕して
材木とか食物とか繊維とか
人が必要な資材を生み出し始めた。
物々交換の話で触れたように
他の人が価値を感じる「モノ」を持つと
それは「商品」となり
「お金」に変えられるようになる。
開拓民は、そもそも
「より良い暮らし」を求め
新しい土地、資材が生み出せそうな
可能性のある場所にやってきた。
どこからやってきたの?というと
「可能性がなさそうな場所」から。
言い換えれば、
可能性がなさそうな場所を捨て、
より可能性がありそうな場所に
移動してきた、ということ。
そのこと自体は、自然の摂理である。
ただ、この活動が数百年つづいた末に
見えてきた、人間の傾向がある。
それが「使い捨て」という発想だ。
で、情報社会に戻る。
今の時代、情報は(ほぼ)無料。
ネットでペペッと調べれば
たいていのことはすぐわかる。
スマホやPC、ネット接続インフラなど
モノにはお金を払っているが、
それを使って得られる情報自体には
お金を払わなくてもよい。
そして、情報が手に入るスピードは
めちゃくちゃ早い。
たとえばトマトが食べたいと思う。
自分で種から育てるなら
少なくとも数カ月かかってしまう。
そこまでしなくても
近所のスーパーやコンビニへ行けば
トマトは買える。
それでも、お店に行って品選びして
お会計してかぶりつくまで
数分から数時間は必要である。
一方でトマトについて知りたいとか
トマトの写真を見たいなら、
スマホで検索すればよい。
情報が手に入るのに、1分かからない。
ちなみに、ここにもう一つ
実際のモノであるトマト探しと
情報としてのトマト探しに
大きな違いがあることに気づくはずだ。
それは
「探した時に見つかるオプションの数」
選択肢の数、と言ってもいい。
大型スーパーに行ったとしても、
見つかるトマトの種類は限られている。
しかし、インターネットで検索すると
十万、百万単位でヒットする。
これは、歴然とした違いである。
そうやって選択肢が出てくると、
次に起こってくるのは「取捨選択」
つまり「より分け」作業だ。
そして、選択肢が多くなればなるほど
迷う時間が増える
じっくり考える時間がなくなる
パッと見、印象で判断することが増える
ということに、自然になるんじゃないかな。
昨今「プレゼン」が超重視されるのも
当然の流れなのである。
しかし、わたしはここが
とっても怖いな~と思う。
これってつまり
人がどんどん、考えなくなる
ってことじゃないの?と思うから。
で、考えてみたい。
パッと目の前に出てきたものを
よく考えないで取捨選択して
目先の状況をクリアしていく
これを繰り返していくというのは
どういうことなの?と。
この「よく考えないで目先クリア」を
徹底的にやっちゃってるのが
「植民地」ではないかと、私は思う。
開拓民というと聞こえはいいが、
彼らのマインドセットは
「可能性がなくなれば、捨てて他所へいく」
である。
森があるうちは木を切り倒し、
土が豊かなうちは作物を作り倒し、
資材が枯渇してきたら
別の場所へ行けばいいじゃん。
安い労働力があるならそこへ、
賃金が上がってきたら
もっと安い場所へ行けばいいじゃん。
同じことである。
ここに欠如しているのは
「この場所に、ずっといる」
というオーナーシップ(所有者意識)。
それが自分のもの(自分事)という
オーナーシップを持っていれば、
ダメなら捨てればいいし、という
使い捨て意識は起こらないはずなのだ。
捨てる場所も自分エリアだったら
その処理も自分ごとだし。
そうなったら、意識変わると思うけど。
こうやって考えていくと、
今便利・速攻でお金を使って
買っているような時間というのは
未来の時間
なんじゃないかという気がする。
情報と同じ感覚で、
モノが絡む現実世界の時間を
「雑に」扱ってよいのだろうか。
哲学をする、ということは
時間を未来に投資すること
なのかもしれない。
そうであるといいな、と思う。